4月16日午前1時の空襲警報解除まで焼夷弾は間近に落下していた。連日の空襲により鈴ヶ森から蒲田にかけて両側一望千里の焼け野原となった。戦災者の多くは横浜方面に流れていこうとしていた。しかし東横線は不通で人々は線路を歩いている。