撮影者について

日本人は五十音順、外国人はアルファベット順で配列しています。

石川光陽[イシカワ コウヨウ] Koyo Ishikawa

生没年: 1904年~1989年
福井県生まれ。本名は石川武雄。東京・九段の蜂谷写真館で修行。1927年警視庁入庁。東京大空襲の被害を記録したことで有名。終戦直後、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)から撮影フィルムの提出を要求されたが、個人的に自宅の庭などに埋め、守りとおし、撮影者のものとなった。『グラフィック・レポート痛恨の昭和』『昭和の東京あのころの街と風俗』

井上裕章[イノウエ ユウショウ] Yusho Inoue

生没年: 1926年~1999年
大分県日田市生まれ。1948年頃、進駐軍関係者からカメラを購入し、浮浪者や町の生活など、九州を中心に撮影してまわった。1951年、当時貴重だったカラーフィルムを手に入れ、全国を撮影して歩いた。1955年に上京してフォトライブラリーを設立。週刊誌の表紙がカラーに変わるとともに、各方面から撮影を依頼された。

太田畯三[オオタ シュンゾウ] Shunzo Ota

生没年: 1922年~2015年
東京都生まれ。会社員時代から全国各地を撮影し、1961年から1977年までに撮影された作品は約12,000枚に及ぶ。

菊池俊吉[キクチ シュンキチ] Shunkichi Kikuchi

生没年: 1916年~1990年
岩手県花巻町生まれ。オリエンタル写真学校卒業後、東京工芸社に入社、報道写真家として活動。1941年東方社の写真部に入社し、中国、満州、フィリピン方面を取材する。敗戦後に東方社を解散し、木村伊兵衛らと文化社を設立。被爆者の医療状況や戦災孤児の収容施設での栄養出張の子供を撮影、深刻な飢餓の実態を記録した。1946年に木村らと空襲によって焦土と化した東京を撮影し、日英語併記による『東京 1945年・秋』を刊行。

久保山栄一[クボヤマ エイイチ] Eiichi Kuboyama

生没年: 1913年~2007年
静岡県生まれ。出身地である静岡県静岡市(旧清水市)で撮影された、主に1939年から1941年頃の家族や子どもたちの様子、防空演習の様子の写真など600点を超える。

熊谷元一[クマガイ モトイチ] Motoichi Kumagai

生没年: 1909年~2010年
長野県下伊那郡会地村(現・阿智村)生まれ。1930年より地元の小学校に代用教員として勤務。戦前の児童雑誌『コドモノクニ』への投稿をきっかけに、以後、童画家としても活躍。1936年にカメラを購入し、郷里の農村の生活を写真に収め、1938年刊行の『会地村 一農村の写真記録』(朝日新聞社)が注目される。写真集の発売を契機に1939年拓務省の嘱託写真家として採用され上京。満州出張の折りに現地を撮影。戦後は郷里に戻り、教員に復職した、1949年から写真撮影を再開した。

鈴木路雄[スズキ ミチオ] Michio Suzuki

生没年: 1936年~
茨城県古河市生まれ。1955年頃から古河の風景を撮り始め、高校卒業後もプロの写真家を目指して写真雑誌への投稿を続ける。1957年に『アサヒカメラ』で佳作入賞を果たす。『セピア色の昭和時代』(国書刊行会、2022年)

土門拳[ドモン ケン] Ken Domon

生没年: 1909年~1990年
山形県酒田市生まれ。1935年、日本工房に入社、報道写真を撮りはじめる。その後、外務省の外郭団体である国際文化振興会などを経て終戦を迎える。1950年、カメラ雑誌の月例審査委員になり、アマチュアカメラマンを指導して、リアリズム論争を巻き起こす。『風貌』(1953)刊行。『ヒロシマ』(1958)、『筑豊のこどもたち』(1960)刊行。1983年土門拳記念館開館。

長野重一[ナガノ シゲイチ] Shigeichi Nagano

生没年: 1925年~2019年
大分県生まれ。慶應大学卒業後、サン・ニュース・フォトス社に編集者として入社し、写真撮影を始める。1949年から名取洋之助とともに『岩波写真文庫』に関わり、約60冊の撮影を手がけた。

名取洋之助[ナトリ ヨウノスケ] Yonosuke Natori

生没年: 1910年~1962年
東京都生まれ。慶應義塾普通部卒業後18歳でドイツに渡り、ミュンヘンの私立学校で商業美術を学ぶ。1931年よりベルリンのウルシュタイン社契約写真家となる。1933年、満州事変を取材後帰国し、日本工房を設立。1934年に『NIPPON』を創刊。1937年に『ライフ』の契約カメラマンとなる。日中戦争勃発後は国際文化振興会や陸軍の写真配信に携わり、1941年には中国に移住して太平印刷出版公司を経営。戦後は編集長格で活躍。『名取洋之助 報道写真とグラフィック・デザインの開拓者』

沼野謙[ヌマノ ケン] Ken Numano

生没年: 1912年~
東京都小石川区生まれ。1939年、古川富三写真館に入門。1932年、木村伊兵衛のスタジオに移り、中央工房の暗室作業などを担当。1939年、国際報道工芸社(日本工房)に入社。おもに有名文化人のポートレート撮影などに従事。太平洋戦争開戦とともに、陸軍ビルマ派遣軍報道班員として徴用され、帰国後、フリーの写真家として『婦人画報』などに奇稿。戦後はIBMなどの広告写真の仕事を経て、DP店経営。

藤本四八[フジモト シハチ] Shihachi Fujimoto

生没年: 1911年~2006年
長野県飯田市生まれ。1931年、金鈴社コマーシャル・フォト・スタジオ入社。日本デザイン社を経て、日本工房入社。1939年、従軍カメラマンとして中国戦線、フィリピンを転戦し、帰国は国際報道工芸株式会社の写真部部長に就任。1945年『週刊サンニュース』を経て、1949年からフリーランスとなり、仏教写真などに取り組む。1988年から1995年まで日本写真家協会会長を務めた。

松田正志[マツダ マサシ] Masashi Matsuda

生没年: 1916年~
岩手県遠野市生まれ。旧制中学卒業後、オリエンタル写真工業写真部に入社。同社で写真技術を修得。1939年、日本工房に入社、軍出向組のカメラマンが続出した1940年以降も国際報道工芸社本社詰めのカメラマンとして『NIPPON』の撮影に従事。戦後、フリーの写真家としてファッション、広告写真で活躍の後、博報堂に招かれ、広告写真家を育成。博報堂退社後は陶芸家に転身。

持田晃[モチダ アキラ] Akira Mochida

生没年: 1934年~2019年
東京・日本橋生まれ。1949年にセミ判カメラを手にしてから、写真に親しむ。1963年から1979年まで音楽誌『カントリー&ウエスタン』のカメラを担当。『東京 いつか見た街角』

師岡宏次[モロオカ コウジ] Koji Morooka

生没年: 1914年~1991年
東京芝区(現・港区)に生まれ。1933年に写真家工藤孝へ弟子入りし、1936年には合資会社アルス入社、写真雑誌『カメラクラブ』の編集を担当。1941年には名取洋之助が主宰する国際報道工芸株式会社へ移り、タイ国向けの対外宣伝雑誌『カウパアプ・タワンオーク』(東亜画報)の編集に従事した。同社は、木村伊兵衛や土門拳らも所属していた日本工房を改組したもので、政府機関との国策協力、国策宣伝を担っていた。戦後は東京フォト社を自営。1973年日本写真協会年度賞受賞。

渡辺豊貞[ワタナベ トヨサダ] Toyosada Watanabe

生没年: 1891年~1972年
長野県小県郡浦里村(現上田市)の郵便局長であった渡辺豊貞氏は写真や映像に興味を持ち、当時最新の写真機や映像機器を駆使して、浦里村を中心に全国各地を撮影した。1916年~1945年頃にわたって撮影された写真は、家族や子ども達の様子、集落の行事、出征の様子、留守家族の記念写真、農作業の様子などが収められている。

Bill Carty [ビル・カーティー]

生没年: 1908年~2006年
シドニーパディントン生まれ。ウォーリー・シュリーのもと、ニュース映画の技術を習得。1941年に召集を受け、戦闘現場カメラマンとして前線で取材を続けた。戦後、占領下の日本にパラマウントの支局を設立。ニュース映画社の支局長となる。1950年に帰国。ドキュメンタリーやニュース映画を手掛け、1973年に業界から引退。War Correspondents協会の創立メンバーであり、理事長を勤めた。

Carmen Johnson [カルメン・ジョンソン]

生没年: 1910年~没年不明
ウィスコンシン州生まれ。1946年8月に来日し、名古屋の軍司令部でタイピストとして勤務。1947年8月からは四国の地方軍政部で婦人問題担当官としての担当業務に勤しんだ。1951年2月まで日本に滞在し、名古屋と四国での4年間半の勤務のかたわら、週末などの休暇を利用して日本各地を訪れ、焼け跡からの復興の姿、人々の生活の様子、そして懸命に働く女性たちの姿などをカメラに収めた。その数は700点を超える。

C.R.POWE [クラウド・ポー]

生没年: 1916年~1996年
アメリカミシシッピ州生まれ。1934年に米海兵隊に入隊(1938年除隊)し、戦艦ワイオミングで勤務。その後1942年に再入隊(1946年除隊)した際は、米軍第五水陸両用軍団本部の通信大隊記録班に所属。終戦直後に来日し、九州各地を撮影した。

Dimitri Boria [ディミトリー・ボリア]

生没年: 1902年~1990年
アルバニア生まれ。19歳でアメリカに移住。1940年、徴兵され訓練や諜報のための写真や映画を習得。国連に雇われ、ヨーロッパの戦渦の跡と復興の様子を撮影するカメラマンになった。1947年、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の要請により来日。専属カメラマンとして14年間わたり、天皇の全国巡幸に随行して撮影するなどの活躍をした。『GHQカメラマンが撮った戦後ニッポン カラーで甦る敗戦から復興への記録』

Gerald & Rella Warner [ジェラルド・ワーナー & リラ・ワーナー]

生没年不明
ワーナー夫妻がラファイエット大学スキルマン図書館に寄贈したカラースライドからなるコレクション。ワーナー氏は占領時期には米国国務省に勤めており、1947年から1951年にかけて撮影された。

Julien Hequembourg Bryan [ジュリアン・ブライアン]

生没年:1899年~1974年
ペンシルベニア州生まれ。戦前(1935年頃)と戦後(1955年頃)に日本のみならず、世界を周遊し、各地の映像と写真を撮影している。その地域はドイツ・旧ソ連・上海・満州など。一時期はアメリカのニュース映画である「March of Times」のカメラマンをも経験している。戦後、ニューヨークのカーネギーホール等で映像を基にした講演会なども実施しており、その映像の価値は米国立ホロコースト・ミュージアムで収蔵され、議会図書館でもオファーが来ているところからも推し量ることができる。

Oliver L. Austin Jr. [オリバー・L・オースティン. Jr.]

生没年: 1903年~1988年
ニューヨーク州生まれ。オリバー・L・オースティン. Jr. はGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)によるNRS(天然資源局)の創設にともない、1946年9月に来日した。来日直後から実地踏査に赴き、北海道から九州、伊豆諸島など、日本全国を調査のためにとび回った。この資料群は約1,000枚のカラースライドで成り立ち、占領期の日本における暮らしを撮影している。

Richard H Kosaki [リチャード・ヒロミチ・コサキ]

生没年: 1924年~
ワイキキ生まれ。両親がともに高知県の出身のハワイ移民。地元マッキンリー高校在学中に真珠湾に遭遇。1943年、ハワイ大学在学中に米軍に志願し、1944年に入隊。1945年、MIS(Military Intelligence Service=陸軍情報部)としてアメリカ占領下の日本に約1年間滞在。その期間に、終戦後間もない日本の風景を撮影した。

Robert V. Mosier [ロバート V. モージャー]

生没年不明
Danae Paolino(D.パオリーノ)氏より国立国会図書館へ寄贈されたカラースライド。パオリーノ氏のおじであるMosier氏はGHQ(連合国総司令部)の文民スタッフとして来日。1946年4月から1947年1月まで日本に滞在し、東京や名古屋、広島等の街頭風景や建築物を撮影した。カラーで撮影した写真は、戦後間もない頃の各地の様子を鮮やかに写しだしている。

Walter A. Pennino [ウォルター A. ペニーノ]

生没年: 1915年~1998年
マサチューセッツ州生まれ。米国陸軍に在職中、マッカーサー元帥付のプレスとして来日。ペニーノ氏は「Boston Daily Globe」に日本における女性の地位に関する記事や、1948年に東條英機の死刑に関する記録を執筆するなどした。ペニーノコレクションは自身が占領下の日本を撮影し、「子ども」「エンターテイメント」「着物姿の女性」「復員兵」などの項目で整理されている。

William Charles Herrington [ウィリアム・C・ヘリントン]

生没年: 1903年~1989年
ウィリアム・C・ヘリントンはGHQ(連合国最高司令官総司令部)のNRS(天然資源局)の職員として、1947年に来日し、東京を拠点にしながら日本中の漁村でフィールドワークを行った。調査には常にカメラを携え、日本各地の人びとの様子や情景をカメラに収めた。写真は全てカラーで、主に1947年から帰国する1951年までに撮影された写真と1969年に再来日した際に撮影された写真を含む写真コレクション。