明治45年(1912)、永田町にあった学習院女学部が火災で焼失し、大正7年(1918)に女学部を青山(青山練兵場跡地・現 秩父宮ラグビー場)の新校舎へ移転した。その際、学習院から独立して女子学習院となった。校舎は昭和20年(1945)5月25日の空襲によりほぼ全焼した。