映像ニッポンオコメモノガタリⅡ ショウワ20ネン~45ネン V1R0222201778

ニッポンお米物語Ⅱ 昭和20年~45年

撮影年月
1945年(昭和20年)~1970年(昭和45年)
コレクション(提供者)
映像タイムトラベル
撮影
発行
製作
ドキュメンタリー工房
配給
時間
46分10秒
米国国立公文書館オリジナル番号
館内限定公開 色彩有 音声有 貸出不可
内容

〔未来に生かす記憶〕

 お米物語の第2弾は、お米が食べられなかった戦後の昭和20年から高度経済成長期のピークだった昭和45年にタイムトラベルする。

1.戦後の食糧不足
 GHQが日本の民主化を進めるため、農地改革が行われた。自作農になり農家の生産意欲は上がるが、当時の庶民はどん底生活。満員列車でモミクチャになって、買い出しに出かけた。警官はヤミ物資を取締り、逮捕者をトラックに詰め込んだ。
・昭和20年(1945)農地改革 買い出し列車 食糧配給
・昭和21年(1946)5月9日 食糧メーデー 飯米獲得人民大会
・闇物一斉取締り
・昭和25年(1950)朝鮮戦争 特需景気
・昭和26年(1951)「お母さんは顔まけ」東京教区大附属中学校 家庭科の授業
・昭和22年(1947)石狩川 水田化工事

2.保温折衷苗代
 昭和27年、蛇行河川の石狩川を改修し、砂地を水田にしようという大工事が行われた。新しく作られた川に水が流れ、不毛の大地は日本で最も大きい稲作地帯へと生まれ変わった。
 稲作りで最も大きな障害は、夏の干ばつ、冷害、そして秋の台風。3月から苗代作りができる保温折衷栽培ではその問題を全て解決した。温床紙を使って稲を早く生育させ、夏には刈り取りができるという画期的な技術だった。
・早期栽培
・覆土(上にかぶせる土)
・温床紙(苗代を寒気から保護する紙)
・昭和35年(1960)頃 白鶴酒造株式会社 山田錦の開発
・昭和33年(1958)~ヘリコプターによる農薬散布
 
3.高度経済成長期における農業の衰退
 「所得倍増」と盛んにいわれた昭和35年には農家は稲作だけには頼らなくなる。秋田では家畜の展示会が開かれている。翌年農業基本法が成立し、畜産物や野菜、果物を作る方向に切り替える。農村の若者たちは都会へ集団疎開へと出かけていく。3ちゃん農業が始まった。
 昭和39年には新幹線が開通し、食料増産のために埋め立てられた八郎潟に、新しく大潟村が誕生した。しかしその頃はもう米不足ではなかった。日本人の米離れが進み、給食でもパンを食べている。
 農地の開拓、品種改良を進めた結果、歴史上初めてお米が余ることになる。昭和45年から減反が始まった。皮肉な事に、生活が豊かになるとともに、日本の農業は衰退していく。
 日本人と切っても切れないお米は、政治と結びついていただけに、様々な紆余曲折の歴史があった。
・昭和35年(1960)第50回秋田県畜産共連会(秋田県十和田町)
・入賞家畜のパレード
・昭和36年(1961)農業基本法成立
・青少年ホーム(神奈川県川崎)
・昭和39年(1964)東海道新幹線開通 秋田県八郎潟の埋め立て 大潟村誕生 八郎潟干陸 新村設置記念(農林省 秋田県)式典
・日本人の米離れ
・昭和45年(1970) 米の収穫(秋田県)大豊作 懇談会 減反の始まり 農業の衰退

資料協力:米国国立公文書館 茨城県 秋田県公文書館 大阪府 八尾市 石狩町教育委員会 株式会社間組 日本映画新社 植田修一 小金沢欣三郎

原文