映像ニッポンオコメモノガタリ メイジ~ショウワ21ネン V1R0222201774

ニッポンお米物語 明治~昭和21年

撮影年月
1905年(明治38年)~1946年(昭和21年)
コレクション(提供者)
映像タイムトラベル
撮影
発行
製作
ドキュメンタリー工房
配給
時間
46分10秒
米国国立公文書館オリジナル番号
館内限定公開 色彩有 音声有 貸出不可
内容

〔未来に生かす記憶〕
 日本は明治の始めまで人口の8割が農民の農業国だった。長い歴史の中ではお米は主食であり、財産であり、生活の中心に米作りがあった。米の増産は国の一大政策。お米は日本人のエネルギーの源だった。20世紀前半、明治の始めから終戦の昭和21年までのお米の移り変わりを見ていく。
 現代では、政府の減反政策が進み、田園の風景は消えつつある。このままでいいのかと考えさせられる。

1.米作りは重労働
 明治30年代、東北地方を冷害・凶作が襲い、貧しい農村では次々と子どもが棄てられた。そんな子どもたちを引き受けたのが岡山孤児院。ここの教育方針はお腹いっぱいご飯を食べさせる事、それが子どもの一番の安らぎとなった。馬で田をならし、肥をまき、全てが手作業の田植え風景。稲作りは最も過酷な重労働だ。1700年以上の歴史を持つ住吉大社のお田植え神事の映像もある。
・児童養護施設 岡山孤児院(1905年(明治38年))全国初 創立者石井十次 満腹主義 好きなだけご飯を食べられることで万引きなど減るという考え。
 1200人の孤児を引き取り世話をする。
 16歳~20歳の少年は職業訓練を受け、自立にそなえる
 保母さんと女子は朝ご飯の準備
 食事の様子
・昭和10年ごろの米作り
 畑仕事の合間に授乳をする母親
 苗代・種籾を苗代に蒔く・育った苗から弱いものを取り除き肥料を与える・牛で田を耕す・鍬を用いて耕す・雑草を寝わらにする・肥を積んだ大八車・肥を蒔く男性・縄に沿って苗を植える
・大阪住吉大社の御田植神事(1930年頃(昭和5年))
 毎年6月14日に行われる

2.国外に求めた米の増産
 昭和始めに襲った経済恐慌ではその解決策を国外に求めた。高い失業率、職も土地もない農村の次男三男は満州の土地を耕し、大豆、コーリャン、粟を作った。土壌、気候の合わない米も試験的に作られていた。
農村の生活は江戸時代~昭和の初期に至るまでほとんど何も変わっていない。農家の食事は貧しく、麦飯や粟飯、大根飯。品種改良によって米の生産は増産するが、それでも白いお米は盆や正月にしか口にできない。そんな時代に軍隊では1人6合のお米が支給された。日本の軍隊は米によって支えられていた。長引く戦争で日本の食料事情は深刻になり、1941年には米は配給制となった。農村の男手は兵隊でとられ、戦争による農業の荒廃が始まる。街の子どもたちは農村に疎開し、農作業を手伝った。終戦間近の沖縄では米軍による食料の分配がされている。
・東北の大飢饉(1934年(昭和9年))
・満州を走る「あじあ号」(1934年頃(昭和9年))
 満州開拓団
 コウリャン・ソバ畑・ひまわり・粟・家畜(豚・羊)・小麦の収穫・米作り・キャベツ作り(1936年秋頃の映像)
 ちゃぶ台 かまどでの炊事 井戸 洗濯 桑の木
 養蚕・紡績工場には農家の娘が口減らしとして勤めにきていた。 
 稲刈り
・日中戦争(1937年(昭和12年))
 兵隊になれば米が食べられた
 日本の軍隊は米によって支えられた
 1941年米の配給制度
 食料事情が深刻
 男性が出征し労働力も定価
・真珠湾攻撃(1941年12月8日(昭和16年))
 戦争が激化 学童疎開 枝豆を運ぶ児童たち 疎開先では勉強ではなく労働に従事。

3.戦後の食糧事情
 終戦後は日本中が飢餓状態だった。植民地米はなくなり、700万人もの軍人と海外引揚者が帰ってくる。人々は着物を売って闇市で食べ物を手にいれなければならなかった。1946年の食料メーデーでは25万人の群衆が皇居前に押し寄せた。
・沖縄に米軍上陸(1945年4月1日(昭和20年))
 おにぎりを受け取り食べている男性たち
 大豆をつぶして豆腐を作る様子
・日本の敗戦(1945年8月15日(昭和20年))
・ダグラス・マッカーサー元帥
・広島県大竹港
 復員兵・DDT
 配給に並ぶ人びと
 闇市・青空市
 バラック小屋
 野外で食事をする米兵
・食糧メーデー(1946年5月19日(昭和21年)
 飯米獲得人民大会 皇居前広場

資料協力
石井記念友愛社・米国議会図書館・米国国立公文書館・松村長二郎・田渕ミヨ

原文