戦争と学校 昭和16年~37年
〔未来に生かす記憶〕
「教育現場は、社会状況を映す鏡である」という言葉の通り、日本の近代史において、学校教育はつねに歴史の荒波を真っ先に被ってきた。特に戦争の前後は教育制度が大きく変わっている。今回のタイムトラベルは、太平洋戦争の開戦と共に生まれた「国民学校」と、戦時中の「学童疎開」、また敗戦後の教育改革の中での学校の映像をみながら、戦争によって学校教育がどのように変貌していったかを振り返る。
1.戦時中の国民学校
昭和18年に撮られた高知市第二国民学校のフィルムからは、戦時中の軍国主義教育が如何に徹底していたかがよく分かる。幼い子どもたちが学校行事で軍歌に合わせて躍ったり、一糸乱れぬ軍隊式分列行進を練習する姿が痛々しい。国民学校は、軍事同盟国ドイツの初等教育システムに倣ってつくられておおり、映像の中ではヒトラーユーゲントを真似した少年団も登場する。当時、日本が如何にナチズムに傾倒していたかを想像させる。敗戦を目前とした昭和20年の暮れに、京都綾部市(吉美国民学校)で撮影された学童集団疎開の映像も紹介する。疎開先の国民学校での対面式あ、食糧増産のため疎開児童たちが大豆の収穫を手伝う様子等、当時日本で41万人もいたといわれる学童疎開児の暮らし振りが窺える貴重な記録映像だ。
資料提供:米国国立公文書館・高知県視聴覚ライブラリー
2.戦後の民主主義教育Ⅰ
敗戦後の学校教育は占領軍の主導によって民主主義教育への大転換をはかることになる。長く続いた皇国主義教育の終焉を、教師や子どもたちはどのような気持ちで迎えたのだろうか。本土より早くに占領された沖縄の民間人収容所の中の小学校や宮城県の工業高校(古川工業学校 現:古川技術専門学校)で教練の銃が押収される様子等、アメリカ軍が撮影した敗戦当時の生々しい映像を紹介する。
3.戦後の民主主義教育Ⅱ
ローマ字学級の授業は、アメリカが一時期、日本の国字をローマ字にする案をもっていたという、いわくつきの映像だ。
教育現場の荒廃が問題となっている今、近代の教育史を振り返り、改めて学校教育のあり方を考えるのも大切ではないだろうか。
資料提供:田淵ミヨ