戦時下の庶民 ~銃後の備え~
昭和12年(1937)、日中戦争が始まり、庶民の生活にも大きな影響が出始めた。まず昭和13年6月20日の出征から。
召集令状の赤紙が届き、明日は入隊という前夜、親しい友人たちと別れの杯を酌み交わすシーンが胸を打つ。
一方、出征兵士を送る町中の映像は、非常に明るい。町を挙げ、村を挙げて喜んでお国のために兵隊さんを送り出す。これは国策として作られた映画のシーンだ。
その明るさを打ち消すように、再び庶民の8ミリ映像が登場する。これは昭和17年2月、太平洋戦争が始まって3か月目のことだ。広島のとも町に在住の中野明治さんが弟のみのるさんの出征の様子を撮影したもの。家の前に別れを惜しむ近所の人達が集まっている。みのるさんは20歳になったばかり。徴兵検査に合格してすぐ召集を受けたが中国の戦場で翌年戦死してしまった。公には戦死は名誉と讃えられたが、みのるさんのお母さんはひそかに「殺されたようなものだ」と悲しみ苦しんでいたという。21歳で人生を奪ってしまう戦争の残酷さ!
最後の作品は「銃後、憂いなし」。太平洋戦争の真っ最中に制作されたものらしいが、軍人で構成された「将士会」が活動のPRと資金集めを目的に作ったものだ。
国の動きにさまざまに揺さぶられる庶民の日常。防空演習や鉄・ダイヤの供出、防空壕作り…そして戦況は日増しに悪くなり、生活も苦しくなっていく。こんな状況を目の当たりにするタイムトラベルだ。
1.タイトル、オープニング
「出征 大阪ニテ」昭和13年6月20日
出征を直前に控えた兵士たちがお酒を飲み交わす。
2.出征と援護
・「今日出征-広島鞆町- 昭和17年2月」
広島県鞆町(ともまち)での壮行会。近所の人々が神社に集まり、出征する5人を見送る。日の丸の小旗を持って出征を祝う子どもたち。
・「銃後憂ひなし」東京出動将士後援会制作
婦人会の女性たちが何か冊子を配布している。
・銃後の備え
部隊慰問。正月前に餅や昆布などを戦地へ送る。また、戦地に蓄音機とレコードを送り、音楽が聴けるようにする。歌手等が兵士の元を訪れて楽しませている。
留守家庭慰問。出征した兵士の家には保護金や、家族の病気の時には見舞金が支払われる。内職をする主婦。愛国婦人会の活動。生活困難な出征軍人家族にはお歳暮が贈られたり、観劇が出来たり手厚く保護されていた。
傷病将士慰問。見舞金が支払われる。慰安観劇会に参加する傷病兵士たち。バスツアーで靖国神社へ参拝、上野動物園を巡る。慰安施設では昼食、植林作業、テニス、散歩、卓球、ピアノの伴奏で歌を唄う、腕相撲、囲碁を楽しむ。
戦病死者並に遺家族の弔意。名誉の戦死をされた遺族には弔慰金が支払われる。公葬の様子。国民総動員を呼びかけるポスター
3.国民総動員
・「国民精神総動員運動始まる」
昭和12年 京都平安神宮で行われた、左京区区民国民精神総動員大会。
・「決戦だ! 鉄・銅の供出を-京都-」
金属供出で家庭にある金属を大八車に乗せて供出する人々。集められた釜や鍋、バケツなどの金属の山。金属供出を呼びかけるポスター。
・「大学生の軍事教練」
東福寺と思われる寺社で軍事教練をする学生。配属将校が指導する。
・「東區浪華防護分團 演習實況」大阪市
防空訓練の様子。消防団が出動し、消火活動。負傷した人々を手当てし救護する、毒ガスが撒かれた想定の訓練では煙を出して、防毒マスクを着けて消毒の粉?を撒く。配給所では婦人会が炊き出しのおにぎりをつくっている。西瓜の配給もある。演習が終わり、挨拶をする代表。
4.架橋演習
・「大日本警防協會 滋賀縣支部製作」
瀬田川架橋演習実況 第四次防空訓練 昭和14年10月24日~30日
警防団が架橋作業をする様子。警防団工作班が川に船を横に並べ、橋と橋を寄せて木材で繋ぎ、船の上を渡れるように板の木材を置く。完成した橋を渡る。
婦人会の炊き出しのおにぎり。
船を繋げた橋を渡る警防団の人々と一般人。
・大阪の焼け跡の空撮。
(田渕宇一郎、近藤博茂、水野圭子提供)