映像サイハテニイキタヒトビト -1933~1940- 資料番号:V1R0222201713

さいはてに生きた人々 -1933~1940-

撮影年月
1933年(昭和8年)~1940年(昭和15年)
コレクション(提供者)
映像タイムトラベル
撮影
発行
製作
ドキュメンタリー工房
配給
時間
米国国立公文書館オリジナル番号
館内限定公開 色彩有 音声有 貸出不可
内容

〔見ればむかし〕
 昭和7年(1932)、日本が中国東北部に満洲国を建国し、帝国主義が中国全土を覆い尽くす勢いで広がり始めた当時、日本ではたくさんの国策映画が制作された。その中の3本を通して、その頃の日本がどんな国策を推し進めていたか、国民をどのようにそれに沿わせていったかを見る。
 まず「朔北の皇軍」。朔北とは北方のこと、ここでは日本の生命線といわれたソ連との国境を意味している。このさいはての地の、冬の寒さは言語に絶する。満洲の首都新京でマイナス30度、さらに奥のハイラルではマイナス50度にも下がる。そんな地で日本の大義名分を信じて戦っていた日本兵たちの姿。国内の日本人も幼稚園から学生、社会人に至るまで戦争に協力する様子が描かれる。大プロパガンダ映画だが当時の日本の状況、普通の日本人の心が肌で感じられる。
 「露満国境をゆく」でも日本軍と現地の人々の穏やかな交流などが強調されている。「明け行く西部満洲」は現在の内蒙古自治区あたりへの旅。草原の民の信仰あつく、平和な生活の様子が見られる。まだ日本軍が入って間もない頃、そこは羊や馬の天国。蒙古の人たちも夕暮れには馬車の上で馬頭琴をひいてのんびりと過ごしている。草原には平和なキャラバンの列。こんな人々が日本の兵士たちを歓迎する。素朴な人々が日本軍の「施し」を喜ぶ様子。仮面をつけて日本軍を熱烈に歓迎する踊りを見せるが、その仮面の下の表情が気がかりだ。自然の中のやすらぐ生活を目で楽しみながら、心は少し重い旅になるかもしれない。

1.「朔北の皇軍」
・満洲国の位置と各地の冬の気温(奉天-26度、新京-30度、ハルビン-40度、満洲里-40度)
・満洲国西側の蒙古の住居パオ、交通手段は馬とらくだ
・厳冬 井戸の水をくむ住民
・靴下の重ね履きにゲートル、毛皮で防寒をする兵士の姿、焚火にあたる兵士たち
・飛び立つ飛行機、大砲、軍用トラック、匪賊との戦闘
・万里の長城、行進する日本兵
・皇居、昭和9年3月1日満洲国は帝国となり溥儀が皇帝に即位、喜ぶ人々の様子、日の丸の旗を振る人々
・慰問袋を用意する国防婦人会、靖国神社、国民の献金で作った飛行機・あいこく号が飛び立つ
・傷痍軍人の保養所を見舞う、千人針、幼稚園児も慰問金に協力
監修:陸軍省新聞班 製作:櫻映画製作所

2.「決死的冒険 露満国境を探る」
・羅津(らしん)港を出港する日満連絡船「慶安丸」、海産物で生計を立てる人々
・国境近く琿春の街並み、石炭の採掘、満洲採金株式会社琿春作業所、砂金採集、ゴールドラッシュ
・光興学校、日本語の教科書を読む児童たち
・密林を進む国境踏査隊、国境警備隊のテント、白樺の木から水を吸う様子、ダイナマイトで魚を獲る
・脱線、転覆した機関車
・国境の穆棱(ムーリン)駅のプラットフォームに国防婦人会
・穆棱に暮らすロシア人住居に招かれる、学校、授業を受ける子どもたち
報知新聞社 国境踏査隊 出原忠夫 根本憲正 川上不比等
撮影:草野信男

3.「明け行く 西都満洲」
・現在の内蒙古自治区の草原、馬頭琴の調べ、草原の馬・羊・らくだ
・雄大な大興安嶺
・開拓民が移住する以前の草原、放牧
・住居パオに暮らす家族、馬に乗る少年、手作りの馬頭琴を弾く男性、羊を調理しおもてなし
・村の入り口や放牧地・狩猟地、道などに「オボ」を作り祈りをささげる
・皇軍をむかえる現地の住民、ラマの踊り
・働く蒙古人の様子 羊毛、砂漠のキャラバン
・ハイラル市、ハイラル駅に蒸気機関車、日本人向けの日本湯開店、日本豆腐油揚増田商店、御料理入船、公園
・日本語学校の生徒たち
・興安(現・ウランホト)、ハイラル飛行場、日本軍警備司令部、満洲里駅、ハルピンの街・路面電車
提供:満洲国情報局 製作:松竹キネマ株式会社

協力:米国国立公文書館 著作:ドキュメンタリー新社

原文

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