20世紀・わが街 わが故郷~神奈川~
〔見ればむかし〕
神奈川といえばまず黒船に開国を迫られた横浜。そして第二次世界大戦に敗北した日本が、最初に進駐軍を受けれた横浜港だ。つまり横浜は2回開国したといわれる。現在の横浜港には引きつけられる。まるで未来都市のような「みなとみらい」が一角を占める。既に20世紀のはじめ、横浜は国際都市であった。映画を発明したエジソンが1898年、彼のスタッフの手で横浜のあちこちを撮影している。賑町といわれた伊勢左木町の劇場街、そこをそぞろ歩く日本人。時代の風俗が面白い。根岸競馬は日本初の競馬場だ。明治時代の馬見所(スタンド)は関東大震災で壊れ、再建されたが戦争で荒廃し、現在森林公園の一角に巨大な姿を残している。横浜駅を出た汽車は小田原へ。当時は既に新橋から神戸まで東海道線が通じていた。小田原は明治維新のときに城の天守閣を取り潰されていたが、市内の気運は旺盛で、映像記録を残している。丹那トンネルの開通(1934)をはじめ、箱根駅伝や神社の祭礼など、今では珍しいものだ。また横浜市内には森永製菓の鶴見工場が建設され、近代設備を誇るチョコレート製造が行われている。しかし太平洋戦争で全ては灰塵に帰した。京浜工業地帯の空襲の被害を米軍の記録フィルムが映し出す。1945年8月30日、連合軍総司令官マッカーサー将軍が厚木に降り立ち、9月2日には横浜港に停泊している戦艦ミズーリ号船上で降伏調印が行われた。現在の横須賀港には米軍の軍艦と海上自衛隊の船が同居して、時代は終わったと感じさせる。戦後の横浜で米兵の検閲を受ける日本人、山下公園で食事をする米兵を羨ましげに見て通る子供たち。今の山下公園にはそんな時代を知らない若者たちが集い、音楽を奏でる。桟橋には氷川丸。戦争とともに数奇な運命を辿った氷川丸は今、レストランやブライダルで活躍している。
最後は厚木市、相模原市、大和市そして小田原市の復興の歩みをみてゆく。
1.明治・大正・昭和時代の神奈川
・1898年 横浜の通り 人力車 居留地
・1898年 劇場通り
・明治時代 横浜駅と弁天橋
・横浜駅構内
・「小田原の歩み」馬車鉄道 人力鉄道 電気鉄道 軽便鉄道
・1989年 横浜根岸競馬場 人力車で競馬場へ向かう人びと
・明治20年頃の観覧席
・一等・二等馬見所(観覧席)
・終戦直後の根岸競馬場
・根岸競馬記念公苑 馬の博物館
・「小田原の歩み」1923年 関東大震災
・1928年 横浜港 御大典記念観艦式 お召し艦榛名
・1934年 丹那トンネル貫通 第17回箱根駅伝 消防出初め式 松原神社祭礼
・1936年2月26日 雪の小田原
・小田急線の開通 箱根登山鉄道の延長 漁業
・森永製菓鶴見工場 研究室 設備 自動温湿度計 チョコレートの製造過程 森永キャンディーストアー
2.戦中・終戦直後の神奈川
・「軍艦旗制定●に五十年」(東京日日・大阪毎日ニュース)横須賀港
・「小田原の歩み」出征兵士 太平洋戦争開戦 大日本国防婦人会 焼け跡
・1945年8月15日 終戦
・横浜市内の焼け跡
・1945年9月16日 住宅地の隠し工場
・京浜工業地帯の空襲被害(横浜市鶴見区安善、小野町周辺)
・空襲を受けた森永製菓(鶴見区)
・1945年8月30日 厚木飛行場に降り立つダグラス・マッカーサー元帥
・1945年9月2日 横浜ホテルニューグランドからミズーリ号に向かうマッカーサー元帥 ミズーリ号に乗船するマッカーサー 降伏調印式 重光葵外務大臣
・横須賀港の惨状
・横須賀駅 米軍の進駐
・吉田橋 米軍による検問
・大岡川のはしけ 水上生活者
・米兵の食事の配給 山下公園で食事をとる米兵
・氷川丸 平安丸 日本郵船ビル 海岸通り クライストチャーチ(教会) 山手聖公会
・1945年 箱根町強羅 強羅ホテル
3.戦後の神奈川
・「小田原の歩み」競輪場 こども文化博覧会 商工祭 錦通り商店街 小田原城天守閣の再建 東海道新幹線
・「私たちの郷土さがみはら」相模原 相模大野駅 相模線 小田急電鉄 バス 学校建築 土木事業 農業 養蚕 酪農 養豚 養鶏 綿羊 農協
・1945年9月4日 厚木空港
・「前進厚木市」1964年 厚木市 ごみ収集車 公営住宅 団地 道路拡張 鉄道 バス乗り場
・「躍進する大和市」1964年 大和市 市役所 保育園・幼稚園 小学校 中学校 小田急線・相模線 商店街 酪農家 農協 市制施行五周年記念式典
・1980年 小田原市
・1945年 2000年 横浜
資料協力:米国国立公文書館 米国議会図書館 小田原市立かもめ図書館 横浜市教育委員会 相模原市 厚木市 大和市 日本郵船歴史資料館 馬の博物館 森永製菓株式会社 岡上彦三