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【閲覧注意映像含む】大日本帝国陸軍士官学校

撮影年月
1937年(昭和12年)頃
コレクション(提供者)
映像タイムトラベル
撮影
発行
製作
ドキュメンタリー工房
配給
時間
46分10秒
米国国立公文書館オリジナル番号
館内限定公開 色彩有 音声有 貸出不可
内容

〔見ればむかし〕
 大日本帝国陸軍士官学校の歴史は明治元年、京都に設立された兵学校に始まる。明治6年、士官学校と名称を変え、その翌年東京の市ヶ谷に移転。明治8年から第一期生が入学した。陸軍士官学校は東大よりも魅力があると言われ昭和20年までに多くの幹部候補生、将校を世に送り出した。ここでは17歳から21歳までの若者たちが「武学生」として学科と術科にいそしむ様子を克明に描く。
 今の人たちには理解できないような場面もある。当時の国民は天皇の臣民であり、彼らは天皇の軍隊であったから宮城遙拝をする。傍から見ると何に向かって深々と頭を下げているのかわからない。放課後なども質実剛健そのもので、遊びも球技などは禁止されていたという。夕食後には「号令調整」という大声を張り上げて号令をかける訓練があった。市ヶ谷の住人たちは慣れていたというが、今なら騒音と言われそうなものだ。
 小説を読んだり、女友達を作ることも禁止。ただひたすらお国に尽くすための勉強に邁進していたのだ。そんな真面目な生徒達は、卒業期が近づくと、1か月にわたる「満朝旅行」に出る。日清・日露の戦争や満洲事変の戦跡を見学してくるのだ。だが、日中戦争が泥沼化し、昭和4年から続いたこの卒業旅行はこの年が最後になった。
 こうして育成された若者たちは卒業とともに戦場に送られ、太平洋戦争の戦況悪化とともに戦死する者が増加した。ここに学んでいる生徒達も卒業生の半数近くが戦死したという。
 これと同じ映像を使って戦後にアメリカが制作した「日本のウエストポイント」も併せて見ていく。全く逆の立場でつけられた解説が興味深くかんがえさせられる。

1.陸軍士官学校Ⅰ 
 昭和12年(監修:教育総監部)
 陸軍士官学校校歌
 東久邇盛厚王殿下
 起床ラッパでの起床・整列・体操・たわしで乾布摩擦
 宮城遙拝・故郷に最敬礼
 振武台雄健神社へ参拝・清掃
 授業・術科・軍刀術・銃剣術・剣道・柔道・体育
 放課後・鉄棒・風呂・散髪・食事
 号令調整
 労泳演習(千葉館山)遠泳
 夏休み
 休日 宮城参拝 靖国神社へ参拝
 相撲見物 極楽坂 地獄坂
 本科 測量演習
 地図作製
 二年の課程修了し、予科を卒業
 士官候補生として実地教育へ

2.陸軍士官学校Ⅱ
 士官候補生として軍隊生活を経験
 昇級して軍曹
 実地演習
 6か月の隊付き勤務を終え、本科に入校
 術科での訓練
 現地戦術演習 野営演習
 馬術訓練
 満鮮旅行 戦跡見学
 二百三高地
 旅順の要塞
 野営演習
 卒業

3.陸軍士官学校Ⅲ ※44分~死体映像あり
 「JAPAN’S WEST POINT」
 日本を分析し、教育に使用したアメリカ製作フィルム
 日活多摩川作品
 信号・測量・号令
 パイロット
 乾杯 
 遺骨箱

資料協力:「陸軍士官学校」昭和12年(古林義雄さん)「日本のウエストポイント」昭和12年頃(米国国立公文書館) 

原文