新日本ニュース第104号
1947年の記録
一九四七年、昭和二十二年はどんな年であったか回顧してみよう。
吉田首相
一月この時の首相は吉田茂氏であった。
ゼネスト中止
二月、全官公労働者二百六十萬を中心とする労働攻勢はとみに活ぱつとなり十八日ゼネスト宣言を発し政府との交渉は決裂したがゼネストと寸前、マ司令官の命令で中止となった。
しん憲法制定
五月三日新憲法が制定され、この日から主權は国民の手に移るに至った。新憲法により貴族院は廃止となり総選挙の結果社会党が第一党となり六月一日片山哲氏を首班とする社会、民主、国協の三党内閣が成立し第一回国会の七月一日首相は施設方針演説を行った。
セ耕事件
この年の国会では隠退藏物資が問題となった。
八高線列車転覆
二月二十日朝八高線列車轉覆事件の為、死傷者一千名を出した。
しん物価体型発表
和田安本庁官は新物資體系を発表、運賃、食糧は約三倍となり主食の闇は止まず、しばしば闇取締が行われた
関東大水害
九月十五日濁水は利根川の堤防を決潰、関東平野を一呑みとし東京三区も浸水するという未曾有の被害を与えた。
貿易再開
八月十五日貿易再開のニュースは港々に活気を与えたように見えた。
国際的な動き
三月十七日世界労レン代表が来朝四月フラナガン神父、五月商震中国代表、七月エヴァットオーストラリア外相、八月ウエデマイヤー、アメリカ特使が日本を訪れ、十一月戦後最初の世カイ婦人円卓会議が東京日比谷で開かれた。
華やかに復活したスポーツ
スポーツは陸上、ラグビーなどの大會が開かれ、野球は最も織んで八月九日水泳の古橋選手は四百米自由型に世カイ記録を樹立した。
文化方面
登呂遺跡が発掘され大昔の生活を偲ばせ、七月三十日幸田露伴氏が逝き、十月二十三日大山郁夫氏がアメリカより帰国した。
東京裁判に東條被告出廷
この間裁判は引續き行われ十二月二十六日には遂に東條被告の段階に入った。
平野農相ヒ免さる
十一月初旬内閣の不統一から平野農相はヒ免されるに至った。
なぐり合いの石炭国管案
各党の利害対立して石炭國管案は国会でなぐり合いを演じた衆院を通過した。
でん力聞き急迫
秋とおもに停でんの為生産は低下し、国民から「でん気をよこせ」と声が起るに至った。
六・三制行悩む
六・三制の實施が進展せず學校の復興が大きな課題となっている。
石炭不足深刻
炭鉱では坑夫が必死の努力を續けているが種々なあい路に依然として不足が悩みの種である。
インフレ激化す
ダンスホールが乱立し、百萬円のクジがワ題を奪い、十二月に入ると国民生活は次第に苦しくなり各地に賃上要求が高まって来た、片山内閣はこの状態の中で越年である。
New Nippon news No.104