時代の一面
序に代へて
前書き
第一部 第一次大戰より第二次大戰迄
奉天在勤時代(第一世界戰爭勃發と日支交渉)
奉天在勤
歐洲大戰勃發
北支視察
二十一箇條要求
日支交渉成立後の情勢
巴布察布事件
瑞西在勤時代(第一世界戰爭中期より獨逸帝國崩壞に至る迄)
瑞西赴任
瑞西在勤
瑞西の國情
歐洲大戰終熄
共産主義を硏究す
三浦公使の歸朝
第一次伯林時代(對獨媾和前後)
媾和會議
山東問題
大戰直後の獨逸
媾和問題に對する獨逸の意嚮
共産主義に對する見方
獨逸復興の見透
戰爭責任の問題
媾和條約調印
カツプ騷亂
日獨外交關係再開とゾルフ大使
歐洲視察
米國の第一印象
第一次東京在勤時代(一九二一年より一九二六年迄)
ロシア・サーヴィスに入る
大連會議
ワシントン會議と米國の對日政策
ゼノア會議
シベリア撤兵
後藤ヨッフェ會談
芳澤カラハン會談
北京條約と日蘇國交回復
米國在勤を命ぜらる
華府在勤時代(一九二六年より一九二九年迄)
米國赴任
米國事情の硏究
米蘇關係と米國の對日政策
不戰條約問題
禁酒法問題
滿洲出張及び印度洋渡航
滿洲出張
南滿洲の事態
北滿に於ける蘇支紛爭調査
畑司令官との會談
財部全權
歸朝と牧野内府に對する報告
獨逸赴任
英國の帝國主義活動
第二次伯林在勤時代(附壽府軍縮會議)
對獨關係の改善
日獨關係
高松宮御來遊
ナチ勢力の擡頭
滿洲事變勃發す
一般軍縮會議
列國の不一致と不熱心
一時歸朝す
歐米局長を命ぜらる
軍縮會議閉幕
壽府に於ける満洲問題
歐米局長時代
國際聯盟脱退
内田外相に意見書を提出
予の根本思想
東支鐵道讓渡問題
買收に關する交渉
滿蘇國境劃定問題
外務省機構の改變
五相會議
國際情勢の推移
米國の情勢
海軍軍縮條約問題
一九三四年豫備會議
一九三五年倫敦軍縮會議
二・二六事件と廣田内閣組閣
北洋漁業交涉
防共協定問題
防共協定の功罪
廣田内閣倒壞
第一次大近衞内閣成立
駐獨大使任命の經緯
對英交涉の準備
乾岔子事件
支那事變勃發
滿洲視察
伯林赴任
在獨大使時代
獨逸の情勢
伯林外交團
ヒトラーに御信任狀呈示
ヒトラーとナチ首腦部
日本一部のヒトラー心醉
獨逸の在支將校引揚と満洲國承認
リッペントロップ外相就任
獨の墺國併合と對獨政策
三國同盟問題
ミュンヘン協定
ベルヒテスガルテンにおけるヒトラーとの會見と伯林離任
在「ソ」聯大使時代
北洋漁業問題
在歐大使會同と伊藤公使訪歐
漁業暫行協定成立
モロトフ外務人民委員となる
波蘭に關する英・佛・蘇交涉と獨蘇不侵略條約締結
第二次大戰勃發
ノモンハン事件處理
漁業交涉
不侵略條約締結後の獨蘇の關係
獨軍の優勢
日米關係の惡化
日蘇不侵略條約の構想と通商協定に關する交涉
不侵略條約に關する交涉
日本の政狀と三國同盟條約締結
莫斯科離任
近衞首相との會談
松岡外相との會談
獨蘇戰爭
第二部 太平洋戰爭勃發迄
第一次外務大臣就任
三國同盟締結後の狀勢
支那事變・三國同盟・日米交涉
獨蘇戰爭の見透し
南部佛印進駐と資産凍結
外務大臣就任に關する東條大將との交涉
東條内閣の性格と入閣の意圖
交涉の膳立て
外務省電報の國内配布
外務省電報の盗取問題
日米交涉の経過
米國の強硬態度
日米交涉の發端
日米諒解案の經緯
近衞兼攝外相の照會
松岡外相の意向
五月十二日日本案
獨伊よりの抗議
六月二十一日米國案
六月二十一日オラル・ステートメント
日本内部の失望と不滿
獨蘇戰爭の勃發
七月二日御前會議決定
七月十五日日本側對案
第三次近衞内閣成立と南部佛印進駐
米國の對日經濟壓迫
日本海軍の窮地
米國の佛印中立化案
近衞・ローズヴェルト會見申入
ローズヴェルト・チャーチル洋上會談
近衞メッセーヂと米側四原則
九月六日日本側申入
九月六日御前會議決定
九月二十五日日本案と十月二日米側覺書
荻窪會談
第三次近衞内閣の退陣
近衞公と日米交涉
日米交涉の歷史的背景
日米關係の歷史
華府會談以後
日本の大陸發展と日米の抗爭
過去の事實を明らかにするの要
戰爭に就いて
十一月四日決定に至る經緯
連絡會議と政府・統帥部の關係
連絡會議の構成と廟議の運營
十月下旬の情勢判斷
連絡會議に臨む腹案
十月下旬以後の連絡會議に於ける全面的再檢討
檢討事項
甲案
甲案に關する軍部との論爭
駐兵期限
甲案に關する駐米大使宛訓令
乙案
乙案に關する軍部との論爭
連絡會議の大詰
卽戰論を却く
軍部の「ヂリ貧」論
戰爭全局の見透し
「交涉不成立の場合開戰の決意を爲す」ことに付き一夜の猶豫を求む
辭職の考慮
連絡會議決定に同意す
十一月四日御前會議
野村大使に對する訓令
米國の傍受電報惡譯
日米交涉と關係國との關係
交涉は最終段階にあったこと
華府に於ける交涉
來栖大使派遣
甲案の交涉
在京米英大使との會談
獨逸との關係
十一月中旬の交涉
來栖大使交涉に参加す
乙案の交涉
米國側の對日準備
華府に於ける米・英・蘭・濠・支の折衝並びに兩大使の具申
「ハル・ノート」
ハル・ノート
ハル・ノート發送直前の華盛頓
ハル・ノート發送直後の華盛頓
ハル・ノートの内容
日本側の落膽と廟議の決着
ハル・ノートの本質と終戰後の諸論議
ハル・ノートは何故に受諾し得ざりしや
米英側も日本のノート受諾を豫期せず
ハル・ノートは最後通諜に等し
ハル・ノートに痛く落膽し辭職を考慮す
戰ふの外なしとの結論に一致す
自衞の範圍
ハル・ノート以後の交涉
開戰
重臣に説明す
十一月三十日連絡會議
十二月一日御前會議
海軍作戰の機密保持
開戰手續に關する海軍との論爭
對米通告案の決定
對米通告は宣戰通告に等し
通告手交の方法に關する經緯
通告手交遲延の事情
獨伊との關係
泰國との關係
蘭印との關係
英國との關係
十二月八日朝の米英大使引見
米大統領の親電
親電接到後の取扱ひ
親電は効果なき性質のもの
當夜の印象
第三部 太平洋戰爭勃發後
宣戰直後
緒戰に於ける國内の戰勝氣分
英國の和議申入説は無根
連絡會議に於ける戰局檢討
俘虜・抑留者問題
我方の利益保護及び交換船派遣
滿洲國參戰問題
對獨關係
獨蘇和平問題
支那問題
東條内閣の國内施策
支那事變解決問題の行惱み
爾餘の大東亞地域
對東亞政策及大東亞省問題
東亞政策
大東亞省案の風聞
ミドウェー海戰
大東亞省問題に關する閣議
外務大臣辭職
辭職後の成行
一九四二年九月より一九四五年四月迄の戰局及考察
大平洋戰局の頽勢
船舶問題
獨逸の敗北と伊太利の降伏
テヘラン會談
東西戰線の惡化と東條内閣の退陣
終戰の構想
戰局急迫と國内情勢
ヤルタ會談
獨逸の無條件降伏
日蘇中立條約廢棄通告
第二次外相就任と其直後
鈴木内閣入閣の經緯
戰爭繼續の困難
大東亞大使會議
大東亞地域の狀勢
獨逸の崩壞
最高戰爭會議
瑞典公使の斡旋申出の經緯
對蘇關係と其施策の準備
終戰工作
最高戰爭指導會議構成員の會合
五月中旬の構成員の話合ひ
廣田・マリク會談
戰況と外交活動
六月八日御前會議決定の經緯
木戸内大臣との會談
五月中旬申合せ第三項の發動
六月二十日の内奏
六月二十二日の御召し
廣田・マリク會談促進の努力
日本の無條件降伏に關する米國側の宣傳
ダレス申出
戰爭繼續不可能の意見具申
特派使節問題
戰局の急迫と統帥部への申入
阿南陸相との意見交換
スチュアート門下生申出
特派使節を近衞公に御下命
莫斯科への申入
ポツダム會談と我方申入
蘇聯政府の應酬
ポツダム宣言受諾と終戰直後
ポツダム宣言
宣言に對する判斷
宣言の取扱
宣言默殺の新聞發表
原子爆彈攻擊
蘇聯の對日參戰
八月九日構成員會議の論爭
八月九日閣議
八月九日御前會議
第一回の聖斷
八月十日日本政府申入
蘇聯大使との會見
八月十日重臣の御召し
聯合國回答
八月十二日閣議
八月十三日構成員會議
陸軍内の動搖と阿南陸相
八月十三日の閣議
兩總長及軍令部次長と會見
八月十四日御前會議
第二回の聖斷
終戰の詔勅發布
阿南陸相の挨拶
一部の騷擾
四國政府に對する申入
在中立國財産文書引渡要求拒否
樞密院本會議と陛下の御放送
鈴木内閣總辭職
停戰
東久邇内閣入閣辭退
略歷