湛山読本
読者のみなさまへ
はじめに―湛山は、天下国家の記者だった。
第一章 自由主義
社説、1914年5月5日号 「断乎として自由主義の政策を執る可し」
社説、1928年1月28日号 「いかにして自主独立の精神を作興するか」
社説、1933年1月28日号 「言論を絶対自由ならしむる外思想を善導する方法は無い」
社説、1936年3月7日号 「不祥事件と言論機関の任務」
社論、1938年2月12日号 「非常時に際して特に我が憲法の有り難さを思う」
コラム 「レタース・ツウ・ゼ・エヂター」
第二章 第一次世界大戦
社説、1914年11月15日号 「青島は断じて領有すべからず」
社説、1915年2月5日号 「第二の露独たるなかれ」
社説、1915年5月25日号 「先ず功利主義者たれ」
社説、1919年5月15日号 「鮮人暴動に対する理解」
社説、1919年8月15日号 「袋叩きの日本」
社説、1919年5月25日・6月5日・6月15日号 「禍根を蔵せる講和条約」
社説、1920年1月17日号 「陸軍国家を危くす」
コラム 私の新聞記者時代
第三章 ワシントン体制
社説、1920年1月24日号 「日米衝突の危険」
社説、1921年7月23日号 「一切を棄つるの覚悟」
社説、1921年7月30日・8月6日・13日号 「大日本主義の幻想」
社説、1921年12月3日号 「海軍七割主張無根拠」
社説、1923年2月24日号 「外交立て直しの根本観念」
社説、1924年4月26日号 「米国は不遜日本は卑屈」
時評、1927年6月4日号 「ああ遂に対支出兵」
社説、1928年8月4日号 「駄々ッ子支那」
社説、1928年12月1日号 「対支強硬外交とは何ぞ―危険な満蒙独立論」
コラム 「日本人と外国語」
第四章 デモクラシー
社説、1920年3月20日号 「民心に希望を与えよ」
社説、1921年11月12日号 「原首相の横死に就て」
小説論、1922年2月11日号 「死も亦社会奉仕」
社説、1923年10月1日号 「此経験を科学化せよ」
社説、1925年2月21日号 「治安維持法は国家を危くす」
社説、1925年4月18日号 「民衆政治家の出現を待つ」
時評、1928年1月28日号 「総選挙の題目」
社説、1931年4月18日号 「近来の世相ただ事ならず」
コラム 「原氏を政治家から再び新聞記者に引き戻したい」
第五章 デフレ論争
社説、1924年3月15日号 「円貨の崩落と其対策 正貨無制限払下を断行せよ」
社説、1927年1月1日・15日号 「物価下落を希望する謬想」
付録、1927年4月23日号 「大恐慌遂に来る」
『地方行政』1928年8月号 「現今の我国の不景気と新産業革命の必要」
社説、1929年7月20日・7月27日・8月8日号 「消費節約の意義及び効果」
社説、1935年12月7日号 「昭和十一年度予算の編成 軍部と大蔵との思想の対立」
コラム 「実際運動に参加する事の不可を覚り」
第六章 満州事変
社説、1931年9月26日号 「内閣の欲せざる事変の拡大 政府の責任頗る重大」
社説、1931年9月26日号・10月10日号 「満蒙問題解決の根本方針如何」
社説、1931年12月5日号 「出征兵士の待遇」
社説、1932年2月6日・2月13日号 「支那に対する正しき認識と政策」
社説、1932年2月27日号 「満蒙新国家の成立と我国民の対策」
社説、1932年10月29日号 「天下を順わしむる道」
財界概観、1933年2月25日号 「我国は戦を好まず」
コラム われわれは「お寺」の住職
第七章 統治危機
社説、1930年5月31日号 「統帥権の要求は議会制度の否認」
社説、1932年5月28日号 「超然内閣に期待を懸くるの謬想」
社説、1935年7月27日号 「真崎教育総監の辞職 尋常ならざる陸軍部内の事態」
社説、1937年1月30日号 「内閣総辞職と陸軍の態度 軍部政党化の危険を反省せよ」
社論、1939年1月14日号 「近衛内閣の辞職と我国政治の将来」
社論、1940年2月24日号 「所謂軍人の政治干与 責は政治家の無能にある」
社論、1940年8月24日号 「新政治体制は何処に行く 政治の貧困豈制度の罪ならん」
コラム 「御用記者成功の秘訣」
第八章 日中戦争
社説、1936年8月29日号 「不謹慎なる外交論を排す」
社説、1936年10月3日号 「日英両国提携の必要」
社説、1937年7月24日号 「支那は戦争を欲するか」
社論、1938年1月29日号 「宣言せられたる我対支政策の二大原則」
社論、1938年11月12日号 「政府は重ねて対支政策を具体的に声明すべし」
コラム 「日支国交調整に新聞の提携を望む」
第九章 三国同盟
社説、1939年8月5日号 「日米通商条約の破棄」
社論、1939年9月2日号 「独逸の背反は何を訓えるか 此神意を覚らずば天譴必ず至らん」
社説、1940年10月5日号 「日独伊同盟の成立と我が国官民の覚悟」
社論、1941年1月4日号 「混沌たる国際情勢と今年の我国の問題」
社論、1941年12月6日号 「和戦両様の準備」
コラム 「巧言令色亦礼也」
第十章 太平洋戦争
社論、1942年1月3日号 「宣戦の詔書に畏み国家総力体制の実践に邁進すべし」
社論、1944年7月29日号 「東条内閣辞職の理由 後継内閣の熟慮を切望す」
社論、1945年6月16日号 「竹槍戦争観の否定」
社論、1945年6月23日号 「ベルリン最後の光景」
社論、1945年8月28日号 「対ソ交渉の顚末」
コラム 「清沢洌君の思い出」
第十一章 再建の思想
社論、1945年8月25日号 「更正日本の門出 前途は実に洋々たり」
週間寸信、1945年9月22日号 「敗戦の真因は何か」
社論、1945年10月13日号 「靖国神社廃止の議」
社論、1945年10月27日号 「近衛文麿公に与う」
社論、1946年3月16日号 「憲法改正草案を評す 勝れたる其の特色と欠点」
1947年5月12日 私の公職追放に対する見解
コラム 「驚くべき自由主義 二宮尊徳翁と福沢諭吉翁」
おわりに―いまこそ、自由主義、再興せよ。
参考文献・資料