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戦後史の天皇

サブタイトル1~10
総解説 最後の御前会議からXデーまで
編著者名
丸山 照雄 著/菅 孝行 著/穂坂 久仁雄 著/天野 恵一 著
出版者
自由国民社
出版年月
1986年(昭和61年)11月
大きさ(縦×横)cm
21×
ページ
231p
ISBN
4426646014
NDC(分類)
288
請求記号
288/Ma59
保管場所
地下書庫半藤図書
内容注記
奥付のタイトル:戦後史の天皇・総解説 年表:p217-226 参考文献一覧:p230
和書 半藤一利氏旧蔵資料
目次

まえがき
第一部 「人間宣言」-天皇の戦後処理(一九四五〜五四=昭和20年代)
ポツダム宣言受諾決定から敗戦へ ・国体護持を信ずるしかなかった 一九四五年(昭和20年)8月15日
敗戦を告知する玉音盤、奪取できず ・抗戦派のクーデター失敗す 一九四五年(昭和20年)8月15日
アメリカ人記者と初の記者会見 ・生死を握る米国世論への命乞い 一九四五年(昭和20年)9月25日
天皇、マッカーサー元帥を訪問 ・国民に押しつけた戦争責任 一九四五年(昭和20年)9月27日
天皇、存続許された靖国神社へ ・「賊軍」を排斥する軍人の社 一九四五年(昭和20年)11月20日
GHQ「国家神道」の解体を指令 ・国家理念の変換を迫る 一九四五年(昭和20年)12月15日
勤労奉仕団皇居へ ・天皇制を護持する「大衆運動」 一九四五年(昭和20年)12月
「人間宣言」のウラオモテ ・自己正当化のための自己否定 一九四六年(昭和21年)1月1日
もう一人の現人神「熊沢天皇」出現 ・外国特派員が注目、晩年は恵まれず 一九四六年(昭和21年)1月18日
最後の戦犯・天皇訴追されず ・高度な政治的判断による戦犯かくし 一九四六年(昭和21年)1月
天皇の「おわび廻り」地方巡幸がスタート ・民心の激励、産業の振興へ軌道修正 一九四六年(昭和21年)2月19日
日本社会党「新憲法要綱」を発表 ・「儀礼的に国家を代表する」天皇 一九四六年(昭和21年)2月23日
皇室暴露雑誌「真相」発刊 健闘す ・闇市時代の「スキャンダル」は過激だった 一九四六年(昭和21年)3月
皇居前広場で飯米獲得食糧メーデー ・「朕ハタラフク食ッテルゾ ナンジ人民飢エテ死ネ」で不敬罪 一九四六年(昭和21年)5月19日
天皇、キリスト教の国教化を考慮 ・皇后、カトリックに改宗の情報 一九四六年(昭和21年)6月
ヴァイニング夫人来日 ・「アメリカ型民主主義」の家庭教師 一九四六年(昭和21年)10月15日
新憲法公布の記念式典挙行 ・裕仁の「平和と民主主義」宣言 一九四六年(昭和21年)11月3日
異端狩りが目的の志賀・神山論争 ・「二重の帝国主義」論の是非 一九四七年(昭和22年)6月
新「皇室典範」と「皇室経済法」公布 ・皇室の民主化の進展度は? 一九四七年(昭和22年)1月16日
天皇、三十三億円余の財産税を納付 ・明治維新後に日本一の財産を蓄積 一九四七年(昭和22年)2月
アジアの民衆を蔑視する最後の勅令 ・民族排外主義の源泉 一九四七年(昭和22年)5月2日
新憲法下の第一回国会開会式に出席 ・「朕」は「わたくし」になったけど 一九四七年(昭和22年)6月23日
五十一人の皇族 平民に降格 ・廃棄された血の「スペア」たち 一九四七年(昭和22年)10月14日
松本治一郎「拝謁」を拒否 ・部落解放の闘士、国会内の旧弊を弾劾 一九四八年(昭和23年)1月21日
戦争責任を底流に「天皇退位」騒動 ・裕仁、戦争責任をとらず 一九四八年(昭和23年)5月
「忠臣」の請願により宮城を皇居と改称 ・「覇者王侯」のイメージ排除 一九四八年(昭和23年)7月1日
「日の丸掲揚」一般国民に許可 ・侵略のシンボルから反共の旗職へ 一九四九年(昭和24年)1月1日
宮内省が規模縮小して宮内庁に ・天皇制イメージ戦略の総司令部として復活 一九四九年(昭和24年)6月1日
文化人に囲まれて”天皇陛下大いに笑ふ” ・成功した文化的天皇のイメージづくり 一九四九年(昭和24年)6月
学者天皇・裕仁続々と著書刊行 ・文化的天皇の証拠物件 一九四九年(昭和24年)9月25日
第四回国体開会式へ初めて列席 ・地域と天皇をつなぐチャンネル 一九四九年(昭和24年)10月30日
講和促進のためにダレス特使と会見 ・天皇、対日講和条約を熱望 一九五一年(昭和26年)2月10日
マッカーサーとの最後の会見 ・国体の命網への感謝の表明 一九五一年(昭和26年)4月15日
皇太后節子死して貞明皇后に ・戦前の「皇室喪儀礼」を準用した「国葬」 一九五一年(昭和26年)5月17日
自治体首長らの慰霊祭参加禁止解除 ・戦没者の葬祭についての次官通牒 一九五一年(昭和26年)9月10日
京都大学は天皇を歓迎せず ・反戦歌、君が代を圧倒 一九五一年(昭和26年)11月12日
皇居前広場の血のメーデー ・「解放」への不定形のエネルギーの爆発 一九五二年(昭和27年)5月1日
政府主催「全国戦没者追悼式」に出席 ・天皇に追悼の資格はあるのか 一九五二年(昭和27年)5月2日
天皇「退位説」を否定す ・平和条約発効・憲法施行五周年記念式典にて 一九五二年(昭和27年)5月3日
皇太子明仁の立太子礼 ・象徴天皇制のイメージを大衆化するためのキャンペーン 一九五二年(昭和27年)11月10日
皇太子明仁、英国など14ヵ国歴訪 ・本格化した裕仁の後継者づくり 一九五三年(昭和28年)3月
伊勢神宮、四年遅れで戦後初の遷宮 ・神国二ツポンの政治的イベント 一九五三年(昭和28年)10月
ニクソン副大統領夫妻と会見 ・政治的復活は社交君主として 一九五三年(昭和28年)11月16日
自由党憲法調査会改憲目指して発足 ・天皇「元首化」の源流 一九五四年(昭和29年)3月12日
 
第二部 「国の象徴」-天皇の復権(一九五五~六四=昭和30年代)
文部省、指導要領で天皇の地位を明記 ・「主権者・国民」を抹殺、「象徴天皇」が登場 一九五五年(昭和30年)2月12日
戦後初の国賓・エチオピア皇帝と会見 ・元首としての地位復権を誇示 一九五六年(昭和31年)11月20日
侵略反省の書『三光』絶版に ・「天皇の軍隊」の実態知るべからず 一九五七年(昭和32年)5月
第三回アジア競技大会開会式に出席 ・天皇が主宰した戦後処理の儀式 一九五八年(昭和33年)5月24日
新聞協会、「皇太子妃」報道で自主規制 ・宮内庁がつくり出す「菊タブー」 一九五八年(昭和33年)7月29日
学習指導要領で「国旗」「君が代」を要求 ・優略のシンポル復活を狙う 一九五八年(昭和33年)9月17日
皇太子明仁、正田美智子と結婚 ・作られた「世紀の大恋愛」劇 一九五九年(昭和34年)4月10日
予備校生K、皇太子夫妻に投石 ・闇に葬られた天皇制への不信感 一九五九年(昭和34年)4月10日
週刊誌の中の「大衆天皇制」論 ・皇室の「民主化」とは芸能人(スター)化であった 一九五九年(昭和34年)4月16日
天皇、巨人・阪神戦を初めて観戦 ・プロ野球に市民権を与えた”天覧試合” 一九五九年(昭和34年)6月25日
天皇、愛好する大相撲を国技館で見物 ・小細工を嫌い玉砕を好む裕仁の美意識 一九六〇年(昭和35年)5月27日
皇太子夫妻、日米修好百年記念で訪米 ・「平和の使者」大いに活躍 一九六〇年(昭和35年)9月25日
右翼、「風流夢譚」で中央公論社長宅襲撃 ・夢の中の”首スッテンコロコロ”で出版社”右グラリ” 一九六一年(昭和36年)2月1日
天皇、長崎で被爆者を初めて見舞う ・人命より国体、結果として原爆投下 一九六一年(昭和36年)4月19日
あいつぐ出版妨害と自主規制 ・「思想の科学」の天皇制特集号廃棄事件 一九六一年(昭和36年)12月
天皇、東京五輪の名誉総裁に ・国威発揚の場でも裕仁は「象徴」 一九六二年(昭和37年)5月30日
読書新聞に対し右翼が廃刊要求 ・暴力と没論理の前に膝を屈するメディア 一九六四年(昭和39年)4月
天皇からの”贈り物”生存者叙勲復活す ・「ブリキ細工のオモチャ」再登場 一九六四年(昭和39年)4月29日
 
第三部 天皇制国家の新たなる復活(一九六五~七四=昭和40年代)
「天皇制打倒論」の全面退潮 ・象徹天皇制は打倒できない「打倒論」 一九六五年(昭和40年)
天皇の婿鷹司平通、バーのママと心中 ・事実を隠蔽する宮内庁、無力なマスコミ 一九六六年(昭和41年)1月27日
政府、「建国記念日」を二月十一日と決定 ・神話にもとづく「紀元節」復活す 一九六六年(昭和41年)12月8日
天皇、スハルト、チトーと会見 ・日本の「独自外交」を担う 一九六八年(昭和43年)3月28日、4月8日
明治百年記念式典行われる ・侵略・戦争に触れずこの百年を祝えるか 一九六八年(昭和43年)10月23日
天皇のマイホーム昭和新宮殿完成 ・耐用年数二百年、総工費百三十億円 一九六八年(昭和43年)11月14日
奥崎謙三の「パチンコ玉事件」 ・「人類普遍の原理」に反する天皇を撃て 一九六九年(昭和44年)1月2日
三島由紀夫と楯の会自衛隊を占拠 ・森田必勝と衝擊的割腹死 一九七〇年(昭和45年)11月25日
「天皇の裁判長」の意思表示 ・飯守裁判長(鹿児島)の公開質問状事件 一九七〇年(昭和45年)12月22日
葉山御用邸放火事件で町長ら辞意表明 ・その後の精神病者対策に影響 一九七一年(昭和46年)2月6日
天皇、欧州の旅で戦争責任を問われる ・ヒロヒトラーの罵声からクソ爆弾まで 一九七一年(昭和46年)9月27日
天皇家の別荘須崎御用邸が落成 ・年に十日間だけ利用する十五億円の別荘 一九七一年(昭和46年)11月5日
"ミニコミ"で天皇論ブームが発生 ・本格的戦後(象徴)天皇制批判の開始 一九七一年(昭和46年)より
沖繩復帰記念式典に出席 ・天皇、新たな「琉球処分」を祝う 一九七二年(昭和47年)5月15日
自衛官の護国神社合祀拒否訴訟 ・高哉、宗教上の「人格権」認める判決 一九七三年(昭和48年)1月22日
最高裁、「尊属殺」は違憲の判決 ・しかし「忠・孝」イデオロギーは消滅せず 一九七三年(昭和48年)4月4日
靖国神社法衆院本会議で可決 ・靖国の本質変化を恐れ廃案に 一九七四年(昭和49年)5月25日
狼たちの天皇暗殺計画挫折 ・"反日"の「お召列車」爆破の虹作戦 一九七四年(昭和49年)8月14日
 
第四部 史上最長の皇位-Xデーのシナリオ(一九七五~=昭和50~)
皇太子、沖繩海洋博開会式へ ・歴史の清算拒否し、火炎瓶で歓迎 一九七五年(昭和50年)7月17日
天皇、訪米旅行で健在をアピール ・初めて「不幸な戦争」を総括 一九七五年(昭和50年)9月30日
天皇在位五十年記念式典行われる ・元首化目指す動きに水面下のトラブル 一九七六年(昭和51年)11月10日
天皇、中国の鄧小平副首相と会見」 ・「不幸な出来事」と侵略に言及 一九七八年(昭和53年)10月23日
元号法成立、「昭和」に再び法的根拠 ・集会の届出書にも元号使用を強制 一九七九年(昭和54年)6月6日
ローマ教王来日、天皇と会見 ・”神道、カトリックと矛盾せず”と宣言 一九八二年(昭和57年)2月23日
ヒゲの寛仁殿下 皇籍離脱騒動 ・ネズミ一匹も出ない祖末な事件 一九八二年(昭和57年)4月
教科書の検定強化が表面化 ・「優略」が「進出」へ、天皇の敬語も強制 一九八二年(昭和57年)6月26日
カナヅチ少年Tの「犯罪」 ・抹殺された「天皇、死ね!」の心 一九八三年(昭和58年)4月29日
右翼の脅迫に便乗する公安警察 ・「パルチザン伝説」出版妨害事件 一九八三年(昭和58年)10月
厳戒下の昭和記念公園開園式典 ・天皇賛英と軍都化が一体となって 一九八三年(昭和58年)10月26日
天皇、米国のレーガン大統領と会見 ・政治的君主外交ますます活発化 一九八三年(昭和58年)11月9日
山谷に天皇主義右翼が登場 ・右翼"テロ"と権力の弾圧の一体化 一九八三年(昭和58年)11月
天皇、韓国の全斗煥大統領と会見 ・歴史的犯罪を水に流すために 一九八四年(昭和59年)9月6日
中曽根首相靖国を公式参拝 ・国家護持のための露払い 一九八五年(昭和60年)8月15日
帰国した浩宮、過剰警備を"批判" ・重警備は"スマート"にすれば解決するのか 一九八五年(昭和60年)12月6日
空前の重警備下で天皇在位六十年式典 ・式典反対者は国家転覆を意図するものか 一九八六年(昭和61年)4月29日
皇太子の訪韓中止 ・対韓外交の切り札か火種か 一九八六年(昭和61年)8月
Xデーとはなにか ・Xデー状況に抗する闘いを! 一九八X年(昭和X年)
Xデー状況とマスマミ ・本質を露呈、天皇漬けを演出 一九八X年(昭和X年)
Xデー以後の皇室儀式 ・服喪と祝賀の続く三年間 一九八X年(昭和X年)
Xデー以後の改憲潮流 ・昭和讃歌から”新時代の憲法”待望論へ 一九八X年(昭和X年)
 
コラム
皇居前広場.
"天皇はチフス菌"
四つんばい検便事件
孝宮和子の結婚
初の園遊会
皇太子、学習院大へ進学
清宮貴子の結婚
「朕」から「わたくし」へ
天皇杯・皇后杯
浅沼委員長の暗殺
歌会始で盗作騒ぎ
宮内庁御用達
一般参賀で発煙筒事件
九人の皇位継承者
アポロ飛行士と天皇
お召列車
天皇の側近・入江相政の死
現代版不敬罪・御名御璽事件
新京都学派のスター梅原猛
中曽根康弘の皇室への愛
年表
人名索引
参考文献
あとがき
著者紹介