俳句の五十年
- サブタイトル
- 編著者名
- 高浜 虚子 著者
- 出版者
- 中央公論社
- 出版年月
- 1942年(昭和17年)12月
- 大きさ(縦×横)cm
- 19×
- ページ
- 283p 図版6枚
- ISBN
- NDC(分類)
- 911
- 請求記号
- C911/Ta31
- 保管場所
- 地下書庫中公新社
- 内容注記
- 高浜虚子の肖像あり 年譜:p259-283
- 昭和館デジタルアーカイブ
序
維新の松山
学生の気風
「同窓学誌」と碧梧桐
家庭の雰囲気
文学への関心
子規との文通
月並から出発した子規
子規の交友
碧梧桐と「乙二七部集」
正岡の家
ベース・ボールと子規
初めて子規を訪ふ
子規の帰省とその感化
漠然とした文学熱
兄事すべき人
第三高等中学校入学
子規日本新聞に入る
帰省の途次京都に遊ぶ
子規庵を訪ふ
「俳諧」
古白京都に立寄る
碧梧桐上洛して同宿
碧梧桐との交際
回覧雑誌の仲間
俳友の来訪
休学して上京
子規「小日本」を編輯
復校後第二高等中学校に転ず
間もなく退学決行
鳴雪及び「菜花集」
「小日本」の廃刊
子規従軍を志願
藤野古白の自殺
漱石との対面
子規帰国の船中で喀血
余命を俳句の道に
後継者の委嘱
「養痾雑記」-「俳諧大要」
大病の前と後
早稲田専門学校
俳話の発表-「俳句入門」
子規の腰痛
子規の委嘱を辞退
俳句を文学の水準に
似寄つた径路
「日本人」に俳話掲載
「叙景詩」
「俳人蕪村」
「めざまし草」
鴎外との関係
俳句で劇評
「うた日記」の選句
露伴と私
漱石と宮島に
国民俳壇の選句
「新俳句」
弁解嫌ひ
「ホトトギス」の創刊
湖南の新婚旅行
乱調の俳句と碧梧桐
下宿営業の経験
「文庫」「反省雑誌」
万朝報入社
「ホトトギス」を主幹
「浅草寺のくさぐさ」
母の病死
「ホトトギス」の好評
「日本新聞」と「ホトトギス」
写生文の開拓
子規の来訪三度
「山会」
晩年の子規
「ホトトギス」経営の苦心
介抱の半生
俳句界の中心勢力
仲間の評判
重慶マッチ会社
子規の手紙
子規の死
「春夏秋冬」「写生文集」
漱石の帰朝
能楽の維持振興
子規の連句排斥
私と連句
家族のこと
俳体詩
自ら恃む
俳句に於ける碧梧桐と私
漱石と私
「我輩は猫である」
文章熱の勃興
「俳諧スボタ経」
「俳諧散心」と小説「風流懺法」「大内旅宿」等
国民新聞に入る-「俳諧詩」
雑詠欄の創設
国民新聞を退く
独力経営に当る
三、四年の脇道
「ホトトギス」と私
碧梧桐の新傾向
碧梧桐派と虚子派
季題十七字破壊の傾向
「ホトトギス」二百号に達す
子規・ホトトギス・俳句-「柿二つ」
影響を受けた人
松山時代の漱石
漱石と俳句
漱石との往来
有名になつた漱石
漱石の人格
二人の先輩
四方太との交流
「山会」の朗読
山のない文章
対蹠的な存在
晩年の四方太
公平な世間
写生文と小説
事実を偽らずに
「朝鮮」と架空の人物
「柿二つ」と「落葉降る下にて」
今日の写生文
常に対蹠的な碧梧桐
子規庵の保存
新し好きの碧梧桐
自己を守る私
周囲に集まる人々
師弟関係の今昔
今後の師弟関係
碧梧桐との私交
子規の眼から見れば
去る者は追はず
目立たぬ実力
俳句界の源
俳句界の中心
前半生と後半生
晩年の碧梧桐
話下手の私
横綱の土俵
攻撃に対して
自己の主張に対する信念
ヨーロッパの旅
俳句の講演
希望の達成
日本独特の俳句
俳句の翻訳
日本俳句作家協会の結成
国家に対する俳人の務め
俳句の選
選者生活五十年
日常の仕事
善悪良否の標準
文章の誘惑
附録・年譜
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