順天堂史 上巻
口絵
順天堂史の発刊に当って(有山登)
第1編 総説
第2編 伝記
佐藤泰然伝
佐藤藤佐のこと
佐藤泰然の誕生
泰然が洋医学を志した事情
足立長雋に学ぶ
泰然と高野長英
長崎へ遊学の途につく
泰然が長崎で学んだ人々
薬研堀にて開業開塾
林洞海と『薬性論』
「和田文庫」の印をもった書籍
蛮社の獄起る・・・・・・長英と泰然
佐藤然僕のこと
庄内藩転封事件
泰然の佐倉移住
順天堂という名前はじまる
佐倉藩の蘭学と渡辺弥一兵衛のこと
天保の末期における日本の外科の形勢
無麻酔と卵巣水腫手術
秩父での帝王切開と順天堂との関係
セリウスとモスト
関寛斎とその記録『順天堂外科実験』
種痘法の普及
安政元年の順天堂の治療代
手術承諾書について
佐倉藩の『年寄部屋日記』より
泰然横浜へ移る
泰然から尚中への手紙・・・・・・特に元治元年十一月二十四日のもの
幕末から明治維新へ
明治三年正月の泰然の手紙
東京に移り間もなく病死
清宮秀堅の『新撰年表』について
佐藤尚中伝
谷中の佐藤尚中の碑
尚中の生い立ち―山口家と北城家
尚中の師匠―寺門静軒と安藤文沢
順天堂にて頭角を現わす
城姓を名乗っていた時代
舜海山口甫仙の訳本
須田経哲への手紙
岡部済海を送るの文
モスト氏コレラ説について
長崎遊学
佐倉帰着後の尚中
藩医としての尚中
門人録
高和介石(佐藤進)を養子とする
佐倉養生所について
長崎留学後の訳書
『セリウス瘍学全書』
戊辰の戦乱に際して
明治政府に登用されて
官職を辞した理由
東京で私立病院を創める
晩年の活動
逝去
谷中墓地にある佐藤尚中先生の碑文
佐藤進伝
佐藤進の業績
進の生立ち
尚中の養子となる
戊辰の戦に活躍する
ドイツ留学の準備
海外旅行免状と紹介状のこと
ドイツへの旅
ベルリン生活始まる
カイザー・ウィルヘルム大学の医学生となる
一八七二年二月付の進の手紙
ベルリン大学を卒業して学位を得る
ビルロートに就き、ついで急ぎ帰国
『順天堂医事雑誌』の発刊
『外科通論』の発刊
『外科各論』の発刊
西南戦争に際して
東京大学の医院長となる
明治二十年前後のこと
濃尾大震災に際して
日清戦争にて活躍
活人剣の碑建つ
日露戦争に際して
大韓医院の設立
順天堂医院の新築成る
『水戸義公伝』の編著出版
『餐霞録』と『佐藤男爵』
『名流華翰』と『餐霞余録』
進の逝去と順天堂研究所の発足
佐藤達次郎伝
少年時代
達次郎出京して医科大学入学
大学卒業の前後―佐藤進の養子となるまで―
ドイツ、オーストリアへ留学
医学博士の学位を得る
副院長の時代
順天堂院長となり関東大震災に遭う
女子美術大学のこと
スポーツと海外旅行のことなぞ
順天堂の近代化すすむ
順天堂研究所と財団法人順天堂医事研究会
順天堂医学専門学校の創立から順天堂大学の成立
日常生活
趣味と生活―松本本松「順天堂百五十年史」より
郷土愛と久々子での終焉
第3編 江戸時代
薬研堀の和田塾
長崎から帰り薬研堀で開業
和田塾と関係深い江戸の医家
佐倉の順天堂
佐藤泰然の佐倉移住
順天堂の経営
佐倉藩での活躍
泰然移住までの佐倉藩のオランダ医学
佐倉藩医としての泰然
藩校の医学教育と泰然
佐倉藩医としての舜海(尚中)
佐倉藩の医政改革
慶応二年以前の医政改革
慶応二年の医政改革
佐倉養生所の設立
佐藤尚中東京に移る
順天堂の門人
門人名簿
門人伝記
第4編 明治時代
練塀町時代以前
博愛社と尚中
東京府大病院の計画
東京府大病院の計画変更
練塀町時代
東京に順天堂を開院
湯島に移って
新病院の開院と尚中の発病
進の帰国
医育機関としての順天堂
順天堂の興隆
明治十年代の順天堂
順天堂医事研究会
日本の主な病院
明治後半の発展
組織変更
病院の改築
各科への専門分化
順天堂職員の動静
由縁の人々
伝記
順天堂の一族
第5編 大正昭和時代
大正時代
首脳陣の交代
順天堂研究所の設置
関東大震災時の順天堂
赤坂分院
順天堂茨城県同窓会
昭和の順天堂
順天堂医院の復興
大正・昭和初期の各科の状況
医局
大正昭和時代の看護婦
補遺
第6編 付録・資料
尚中先生并ニ順天堂医院創立の事
資料一(手紙)
資料ニ(碑文)
資料三(建白書)
資料四(会則)
資料五(名簿)
資料六(系譜)
第7編 年表
あとがき
索引