図書ステップス080000202

Steps

サブタイトル1~10
日本製靴株式会社社史 日本製靴の歩み・1902-1989
編著者名
日本製靴株式会社社史編纂委員会 編者
出版者
日本製靴
出版年月
1990年(平成2年)1月
大きさ(縦×横)cm
30×
ページ
298p
ISBN
4931211089
NDC(分類)
584
請求記号
C584/N71
保管場所
地下書庫中公新社
内容注記
年表・文献一覧:p286-297
和書
目次

STEPS
日本製靴の歩み
新世紀のステップとして。(横内敬一)
目次
プロローグ
明治35年の日本製靴創立に参加した有力4社とは…。
創業総会は銀座の一角の洋館でその席にタイムスリップしてご案内。
第1回株主定時総会も順調にすべりだし早くもドイツに製靴機械を発注。
明治40年1月調査「東京市京橋区全図」
第1章 靴産業の芽生え
タイムマシーンは速度をあげて黒船襲来から文明開化へ。
「近代式兵制の確立には、靴の自給が必要」と熱っぽく西村に説く大村益次郎。
東京靴同業組合による「靴の記念日」の決定は、史実に照らしての根拠がある。
「夏になっても秋が過ぎても1足の軍靴の注文もありませんでした」
伊勢勝は日本ではじめて新聞に靴の広告を掲載した。
陸軍省による軍靴大量発注とその身勝手な取り消し。
明治7年の東京では靴は1足1円30銭前後だった。
明治6~7年ごろ東京の街は唐物店など新しい活気に満ちていた。
西村の危機乗り切りを渋沢栄一の友情の深さが助けた。
新生「桜組」の名に秘められたのは郷土・佐倉と国花への想い。
旧幕以来の皮革取り締まり役・弾直樹も洋式化の到来を予感した。
弾直樹の双肩には、旧幕以来の配下の人たちの生活がかかっていた。
二転三転ののち浅草亀岡町に靴・革の製造工場を経営。
つぎつぎと鉄道が伸び、銀行も設立される。
日本製靴㈱の創立系統図
第2章 近代化への歩み
交通上、金融上の基盤が整備され、軽工業国への道を開く。
明治18年『東京流行細見記』にみる在京の靴屋さんたち。
『東京府統計書』に見る靴工場の組織・規模と製造者。
憲法発布の奉祝行事を機として、官員間に洋服や靴が普及する。
「人の三井」「組織の三菱」の違いは商法施行のころから始まる。
伝統型皮革業の代表・弾直樹には、生前の功により、銀盃を下賜される。
実業界の傑物・大倉喜八郎による製靴事業が東京に進出。
西村勝三は、少し遅れて「桜組」を合資会社に改組する。
開明的実業家・西村による靴工の組織化とその舵取り。
日清戦争がアジアの日本に残したものは…。
日清戦争の好影響で地歩を確立し、靴産業は輸出へ全力を注ぐ。
当時“重要輸入品”とされた靴底革にも、国内自給への努力が続けられた。
力をつけた日本の靴産業は、さらに製靴機械の輸入に目を向ける。
第3章 日本製靴の誕生
“八甲田山”死の雪中行軍や日英同盟は、日露戦争のまえぶれだった。日本製靴の設立に参加した有力4社、そ
渋沢栄一を縁結びの神として西村と大倉の両巨頭が手を握る。
株主の総会出席状況を手がかりに会社運営への関心度を測る。
着々と操業の準備は進み1年半後に初注文を受ける。
日露戦争の開始も終幕も列強環視の中で行われた。
増産に次ぐ増産にもかかわらず軍靴はまだまだ不足ぎみだった。
財界のムードは無賠償講和には沈滞し、投機熱に浮かれたりした。
西村勝三の死後、皮革産業には大倉喜八郎が指導力を発揮する。
早くも20世紀初頭、日本靴産業は連続して輸出超過。
在京の靴業者900人をまとめ、「東京靴同業組合」が結成された。
ヨーロッパに大戦が勃発して日本の貿易は難問に直面した。
ロシアから軍靴の大量発注100万足。日本製靴は55万足の受注に活気づく。
大正4年、日本の靴の輸出量は前年の10倍にふくれあがった。
おでん燗酒屋の店頭は人の山。安値洋食店が、これまた“人の山”の毎日。
ロシア革命の混乱でロシアへの“輸出代金未回収”が続出する。
会社創立後、20年の歳月が流れ、経営陣の顔ぶれも変化する。
第4章 軍需を中心として
国内不況打開の道を大陸進出に求め、結局は太平洋戦争での破局に向かう。
大正12年春、大沢亨が専務に就任して所信表明の中で新時代への対応を説く。
関東大震災が9月1日正午近く襲い京浜の経済中枢機能はマヒ状態に陥る。
千住町大字中組の日本製靴の損失は工場4棟と社宅の倒壊で計50万円。
帝都復興を掛け声とした震災景気もバラック建築に似た底の浅さであった。
震災後は機械靴の質的向上が見直され、グッドイヤー式機会の導入が広まる。
震災特別損失は決算上わずか1期で、資産再評価により補てんされた。
伊藤琢磨の会長就任で再建に意欲、大倉喜八郎は米寿引退、大正から昭和へ。
女性の洋装が大震災を機に普及して婦人靴にも市場開拓の夢がふくらむ。
童謡『赤い靴』『靴が鳴る』の歌詞で都会の子どもに靴が身近となった。
取締役会長となった伊藤琢磨、そのプロフィールと経営戦略とは…。
日本製靴史上ただ一度の減資は会社の堅実化を期したもの。
昭和初期の恐慌や政治不安に耐え、靴業界は前向きに健闘を続けていく。
会社百年の計として人材の確保と養成を心がける。
平和期とみられる昭和初期までの日本製靴の軍靴生産の規模をさぐる。
陸海軍部内の抗争と革新官僚の登場で国民生活に戦時色ますます濃厚。
日本製靴も「軍管理工場」に指定され、華南の海南島へ修理班を派遣した。
太平洋戦争突入と前後して社内機構の簡素化と整備をはかる。
靴の大増産は2交替制と人海戦術で。無鉄軍靴やタクトシステムの名案も。
軍の要請でアジア各地に靴工場建設。
比島では現地派遣員の悲劇も。
上海製靴の目標は日産2,000足。現在も中国でこの工場を生かし靴を生産。
本土決戦態勢の一環として士気振興の新制度を導入。
往年の少年勤労動員学徒が語る戦時下の靴の現場こぼれ話。
空襲下に働き生きぬいた人々も玉音放送に涙した。
第5章 復興への足音
敗戦の虚脱の中で文化国家待望の声が靴産業再建に希望の曙光を投げかけた。
占領政策は日本経済に対し、また日本製靴に対し、どんな影響を与えたか。
日本経済の民主化と称して「財閥解体」は持株会社整理委員会の手で進められる。
持株会社・大倉鉱業の系列として日本製靴も「制限会社」に指定される
日本経済を計数的に把握するためGHQは次々に報告書を提出させた。
制限会社ゆえに、退職金支払や役員報酬増額も許可を要した。
特別経理会社として新旧勘定を区分し、戦時補償の打切りに備える。
特別管理人として4人を選任したが、適用除外申請は見送った。
再建整備計画とともに、戦後インフレの進行が思いがけない効果を生む。
昭和24年、再建整備計画の実行完了。
占領政策から完全に解放される。
戦後日本の労働運動の消長も占領政策によって大きく規定された。
日本労働運動の胎動期のエピソードに城常太郎らの「職工義勇会」があった。
敗戦の廃墟のなかに早くも日本製靴労働組合が結成された。
生産管理から経営管理へと闘争戦術を転換させた背景と過程を追跡する。
GHQの解釈も揺れ動いたあと、生産管理は非合法と判定された。
占領行政下、自由経済復活を目ざす日本の靴業界には問題が山積。
日本製靴の労働協約に盛られた労資双方の言い分を分析する。
ドッジ・ライン超均衡予算以後、労使交渉に新局面が展開する。
労働組合の分裂から再建への足どり。
法廷闘争も「和解」で収束へ。
朝鮮動乱の勃発は日本戦後史の意外な転換点と位置づけられる。
国連軍の派遣と中共義勇軍の介入から“老兵”マッカーサーが消え去るまで。
米ソの冷戦を背景に日本占領政策は左から右へ公職追放180度の転換。
「経済白書」にみる動乱開始の年は、「特需」の経済効果が大きかった。
日本製靴の経営陣はすでに戦前から民需・国際化時代の到来を予測。
日本製靴に「特需」の恩恵-その推移を計数中心に追う。
第6章 新しい服飾文化へ
戦前から海外に目を向けて先端技術の導入を熱心に先取りした。
戦後統制から朝鮮特需へ。実質的な民需は昭和27年から。
統制解除後から民需靴拡販までの努力と苦労。
米軍の靴を韓国向け特需に。サイズの縮小に苦心した“改造靴”。
西ドイツ・モナエス社などから新鋭製靴機械を輸入。
有名タレントの出演でTBSラジオにクイズ番組を提供。
日本製靴も参加して両国国技館で見本市を開催。
「日本製靴業生産性視察団」がもたらした大きなメリット。
かわぐつJIS問題はファッションによって解決。
安全作業靴の画期的製造法とDV式設備の導入。
日本製靴労組の代表が第1回世界労連産別会議に参加。
フリーマン・シューと技術提携、本格的な民需靴生産体制に役立つ。
生活文化の変化が靴などの消費を押し上げていく。
「リーガル」ブランドの生産・販売を開始。
VANヂャケットとの提携でVAN-REGALが衝撃的にデビュー。
東京駅八重洲口に直営第1号リーガル専門店をオープン。
フランチャイズ・チェーンの展開、ここに始まる。:マイクロシューズの開発で軽くて丈夫な靴の先鞭をつける
「ショーカー」と「ショールーム」営業活動に新形式が登場。
人工皮革の登場は東京オリンピックの年。
チヨダシューズとの共同出資で全国規模の販売会社を設立。
海外技術の導入を続けながら自社ブランド「クララ」「レニカ」を発表。
レディス・リーガルが大ヒット、イブ・サンローランとの提携商品も発売。
日本万国博覧会記念にタイム・カプセル収納の靴を製作。
製靴業百年祭を開く。チヨダシューズ、経営権の委譲。
本社中枢機構を新宿・市ヶ谷へ。リーガル・スニーカーが爆発的なヒット。
ラルフ・ローレンなどブランド製作展開の推移。
会社創立80周年を迎えて諫早社長がTQC活動の導入を宣言。
新ブランドの生産・販売のライセンシー契約の締結があいつぐ。
日本靴科学研究所を設立して産学連携の推進をはかる。
多様化時代に即してブランド群に一層の広がりをめざす。
科学的な経営とシステム化への変遷。
タイのSAHAグループと「リーガル」ブランドのライセンス契約。
結章 国際化に向かって
社是「団結・創意工夫」のこころを「お客様第一」に生かそう。
TQCとCI、そして「戦略的情報システム」。
足もとから美と健康を創造するトータルファッション・クリエイター。
シューズ市場の国際化と自由化に向けた対応を進める。
より社会性のある企業として、文化活動に貢献する。
夢のある拡がりへ。多角化の可能性を求めて…。
社是
日本製靴㈱役員
日本製靴㈱定款
日本製靴㈱取締役・監査役一覧表
靴とファッション史Shoes Fashion & Advertisements
靴の起源
明治・大正
1950年代(昭和25年~34年)
1960年代(昭和35年~44年)
1970年代(昭和45年~54年)
1980年代(昭和55年~平成元年)
日本製靴広告受賞作品記録
資料・年表
日本製靴㈱会社概要資本金の推移
売上高・従業員の推移
組織図
リーガルシューズ・フランチャイズチェーンおよび関連ショップ
日本製靴グループのネットワーク
年表
文献一覧
写真資料提供一覧
編集を終えて。(島田勝治)