大橋鎭子
昭和の暮らしを創ったふたり 大橋鎭子・花森安治の物語
生い立ち・戦争・出会い・『暮しの手帖』 大橋鎭子・花森安治の略年譜
ふたりの人生のターニングポイント 鎭子と花森のゆかりの地
戦後の焼け野原からの出発 『暮しの手帖』の歴史
大正から昭和―『とと姉ちゃん』の時代 ファッションからみる時代と文化
大正~昭和の時代が生んだ ファッション・文化・暮らし
第一幕 戦前編 大橋鎭子と花森安治 ふたりの青春地図
鎭子が幼少期を過ごした地 祖父、両親とも深い縁がある北海道
父の病で移住する大橋一家 のびのびとした小学校生活を送った鎌倉
父の死を経験する鎭子 父のさらなる療養のため移り住んだ大井町
鎭子の女学校生活 母校・東京府立第六高等女学校のある三田
日本興業銀行で働く鎭子 “編集”のタネとなるスキルを身につけた丸の内
鎭子、半年間の大学生活 日本女子大学のある目白台
街中を彩った文化 鎭子と花森が青春時代を過ごした大正から昭和初期の東京
花森の生まれ故郷 初めてフェミニズム思想にも触れた地・神戸
花森の旧制高校生活 編集の道を開く出会いと経験があった松江
東京帝大生となる花森 帝国大学新聞の創作に没頭していた地・本郷
伊藤胡蝶園広告部での花森 デザインの基礎を身につけた南麻布
人物ファイル 『暮しの手帖』に関わった人たち
川端康成
志賀直哉
三島由紀夫
武者小路実篤
井伏鱒二
坂口安吾
野口胡堂
幸田文
森田たま
火野葦平
吉川英治
サトウハチロー
平塚らいてう
柳宗悦
米川正夫
牧野富太郎
池田成彬
田中角栄
天野貞祐
坂本九
安井曾太郎
東久彌成子
佐野繁次郎
第二幕 戦中編 大橋鎭子と花森安治 ふたりの戦時中の記憶
鎭子は日本読書新聞社へ 戦時中の出版事情
食糧難の戦時下での鎭子 耐乏生活のなかでの一生忘れ得ぬ人の温かみ
鎭子がみた東京大空襲 25歳の誕生日に刻まれた悲しい記憶
空襲で姿を消した建造物 あらゆるものが犠牲となった戦争末期
北満へと出征する花森 広告業界で活躍し始めた矢先に届いた召集令状
大政翼賛会での花森 国策広告のポスターを数多く手がける
日本の敗戦と花森の思い 終戦直後に目にした家々の灯りに対する決意
第三幕 戦後編 大橋鎭子と花森安治 ふたりが届けた戦後文化
鎭子と花森の出会い 家族への思いと戦争への贖罪の気持ちが結びつく
出版社「衣裳研究所」の設立 終戦の翌年にファッション誌『スタイルブック』を刊行
『暮しの手帖』の創刊 “暮らしが明るく、楽しくなるものを、ていねいに”
ファッションの移り変わり 『暮しの手帖』と戦後日本の暮らし①
料理・食べ物の変化 『暮しの手帖』と戦後日本の暮らし②
住まい・生活の発展 『暮しの手帖』と戦後日本の暮らし③
大物作家と『暮しの手帖』 時代や文化を象徴した著名人たちの随筆
名物企画「商品テスト」 広告が一切ない『暮しの手帖』で50年以上続いた
花森安治の雑誌づくり 一切の妥協を許さず、誌面のすべてに携わる
暮しの手帖社は東麻布へ 銀座からよりアットホームな環境に
鎭子のアメリカ視察旅行 米国務省の招待で4カ月間滞在
『暮しの手帖』が挑んだ試み 毎日の暮らしに役立つことを主眼として
花森安治の最期 死の間際まで『暮しの手帖』を制作し続けた稀代の編集者
大橋鎭子の編集者人生 80過ぎまで社長と編集長を兼務して最後まで現役だった
編集部オススメの6冊 大橋鎭子・花森安治をより理解するために
コラム
花森安治は除草をしていたのか?
誌面に登場した手のモデルの正体