昭和こども図鑑
1章 家族と生活
卓袱台は、家族がそろってグルリと囲み、一緒に食事をする円いテーブルである。
お茶の間の障子をはさんで台所があった。
鉄のお釜の底にへばりついたおこげご飯は、香ばしくておいしかった。
母が手拭いで姉さんかぶりにしたら、いよいよ掃除がはじまるぞ、という合図である。
いまでもぼくは渦巻き型の蚊取り線香の匂いが好きだ。
台所には、蝿取りリボンが何本かぶらさげてある。
一家に火鉢一つだけが、暖房のすべてだった。
股引きやステテコには、昔のお父さん像が、そのまましみついて残っているようだ。
いまでも賑やかな母の針箱の中身をよく覚えている。
洗い張りした布を張り板の下から一枚ずつ剥いでいくのは気持ちよかった。
陽あたりのいい場所を選んで筵をひろげ、修理屋さんはいつものんびり楽しそうに仕事をしていた。
狭い路地の奥までたくさんの物売りが毎日やってきて流して歩いていた。
風鈴屋さん、金魚屋さんは、いつもいち早く夏の季節を運んでくるおじさんであった。
酔った父親が輪タクで帰ってくると、母の機嫌がとても悪かった。
電信柱を、ぼくらは三角ベースの三塁に使っていた。
電報が配達されると、その度ごとに家中がみんなあわてふためいていた。
割烹着は、母さんのユニフォームだった。
2章 こどもたちの遊びと生活
小学校の男の子は、ほとんど丸刈りだった。
こどもたちは、学校から帰ると、みんな下駄にはきかえ外にとびだした。
お店や家の手伝いをしてようやくもらった、お駄賃はうれしかった。
銭湯にかぎらず、どこにも恐い頑固じさんがいてよく怒られた。
昔の男の子は、何かというと木にのぼって遊んでいた。
雑草がおい茂り、ばったがとび交い、空には蜻蛉が無数にとんでいた原っぱ。
竿の先から手で少しずつツバをつけ、まわしながらトリモチをぬる蜻蛉とり。
電柱にぶつかり、ゴミ箱に倒れ、それでもみんな三角乗りに挑戦した。
ほとんど夢を十円で買ったいたような「紅梅ミルクキャラメル」
カバヤキャラメル」
どこからともなく毎日やってきていた。紙芝居屋のおじさんの後ろ姿のシルエットをいまでも覚えている。
三角ベースという言葉に、甘酸っぱい想いをいまでも感じてしまうのはなぜだろう。
五球スーパーラジオで聴いていた、「尋ね人」から「笛吹童子」。
「カムカムエブリボディ ハウドゥユードゥー アンドハワユー」
日本ラジオ史上最も演芸番組が盛んだった昭和三十年前後には、どこを回しても、
落語・漫才・浪曲・講談がたえず流れていた。
力道山がシャープ兄弟とはじめて闘ったのは、昭和二十九年の二月一七日のことである。
3章 小学校と街の風景
ぼくらの世代は、日本の鯨全盛の時代に育ったこどもたちだった。
わが家のライスカレーには、豚のこま切れがなん匁入っていたのだろうか。
スキ焼き、コンビーフ・パイナップルの缶詰は、子どもたちのご馳走だった。
おむすび、稲荷ずし、海苔巻き、茹で玉子が、遠足のお弁当の定番だった。
デパートは、普段なかなか食べられないご馳走を食べるところである。
ぼくの絵日記の中では、「駅」のことをわざわざ「ていしゃば」と書いてあった。
夏休みにしなければならないことで、一番きつかったのが、毎朝のラジオ体操のラジオ体操。
復興校舎の二部授業、青空教室、そして校門の桜。
黄色と黒に塗り分けられた台にたっていた、交通整理のお巡りさんは格好良かった。
乾電池で豆電球を灯ける実験をしたのは、二年生になってからの「理科」に時間だった。
スタートカメラで撮った修学旅行の記念写真はとても小さかった。
蓄音機、SPからCDへ。ぼくらのレコードの歴史。
ハーモニカと木琴しかなかったブラスバンド
おでこに氷のう、頭には水枕。先生が往診に来てくれると、すごく安心した。
三等車の夜行列車で母の生家へ。二十四時間の長旅だった。
駄菓子屋のおもちゃたち
駄菓子屋のお菓子たち
懐かしいお菓子たち
女の子のおもちゃいろいろ
こどもにぜひ伝えておきたい懐かしい遊び
あとがき