学童疎開を語り継ぐ
第1部 「国学考」の記憶と記録
《巻頭の辞》学童疎開は平成時代の象徴に(国学考代表・奥田継夫)
追悼 『国学考』生みの親 育ての親 お二人の死を悼む(奥村理事長・寺師事務局長)
令和元年7月27日の催し「学童疎開75年の回顧」大阪市立中央図書館との共催
【会員投稿】学童疎開の体験記
集団疎開
私の疎開生活は白飯で天国だった ウソだといわれるが総て実体験(片山忠昭)
母と弟、神戸空襲で永遠の別れ 楽しかった川遊び 原木運びの手伝いも(川口耕三郎)
「僕はこの家のぼんぼんやぞ」 卵焼きをもらえず、おばさんに叫ぶ(小阪恭亮)
富山県の西本願寺別院で集団疎開 そして焼夷弾の雨降る帝都(鈴木哲朗)
戦争の受難を生かし若者に期待する 玉音放送聞き車座になって話し合う(土井盛夫)
食糧難で昼食は馬鈴薯と大豆 今が在るのは、先生・村人のお陰(中西明)
マルヤの面会、粗悪なお椀 先生の前でのどを詰まらせながら食べた芋(外山禎彦)
私の疎開中に家族全員が焼死 八幡も危なくなり平田村に再疎開(沼田浄子)
国が守ってくれると思った 教員退職後、紙芝居で語り部活動(橋尾信子)
とわ(永久)のたから(寶)に 良き船場・第二の故郷の集団疎開想い出(樋口良次)
語りつたえる『奪われた命』 誤った選択しないように(久下謙次)
風化させてはならないこと 花の吉野は美しくも悲しい(藤渓純子)
トイレに行くのが怖く布団の中で 先生の悪口を言ったため、弟もにらまれる(松井朎)
二年目から担任として同行 部室を仕切って学年ごとに授業(山條美代子)
多くの方から背中を押される 「国学考」で育まれた私の〝語り部〟活動(吉田房彦)
集団疎開は飢えとシラミの闘い 戦後の生活の方が苦しかった(米倉澄子)
台湾でも日本人学童が集団疎開 米軍の空爆が激しくなり山中のブルブルで(田中洋子)
縁故疎開
山の段々畑で機銃掃射に遭う 逃げる時、ぬげた草履に機銃弾の穴(三好良子)
弟二人を連れ下市に縁故疎開 疎開は子どもに厳しいものでした(秋山美代子)
佐賀の伯父宅へ私一人で疎開 大阪大空襲で自宅焼失、あわや孤児に(河原田眞砂子)
夏、校庭で何度も倒れる 軍国少女だった私(森田由利子)
懐かしい疎開の生活 優しかった祖父母の眼差し(山下良寛)
集団・縁故
母恋しさに部屋中、泣き声 家族と一緒にと母の実家で暮らす(大橋總子)
戦争開始当時の我が家族と疎開・終戦後 戦争は敗戦になっても終わらなかった(神崎房子)
集団疎開の温かさ今も続く 縁故の逆縁「曲がった真鍮の火箸」(武之内みどり)
川之江の東洋紡女子寮へ集団疎開 死ぬなら家族一緒にと父が迎えに来てくれた(名佳千栄子)
受入れ
私と学童疎開史研究 あの戦争への嫌悪感消え難く(赤塚康雄)
軍隊式呼称となり「第4小隊」 都会の縁故疎開児と言葉通じず(福山琢磨)
紙芝居
コンクールの出会いから始まる 紙芝居「学童疎開の八ヵ月」に想うこと(浅田ひでこ)
【資料編】
終戦直前大阪市国民学校学童集団疎開地・疎開児童数一覧表
学童疎開に関する重要決定事項
「国民学校と学童疎開を考える会」10年の歩み
《後記》国民学校・学童疎開・そしてこれから(国学考副会長・赤塚康雄)
奥付