戦争と私の昭和史
序文 後世への悲願の書(東京経済大学名誉教授・色川大吉)
プロローグ 私の〝近い過去〟―信濃から川崎へ
『千曲川のスケッチ』小県郡祢津村
国の命をつなぐ糸
興奮と熱気の北国街道
厳しい寒さと不況の町
川崎市合併で紛争の町へ
いまも残るシャッター絵地図
私が県立川中へ入った頃
戦争と「教育勅語」
「大東亜共栄圏」をめざす
小学校から国民学校へ
Ⅰ さようなら「綴り方」先生―昭和十六(一九四一)年
無言の叱責を受ける
『赤い実』から『旗のある丘』へ
幻の『赤い実』
何を訴えようとしたか
「児童図書館」と「日記」
高まる軍靴の足音の下で
宮沢賢治の「雨ニモマケズ」
初の児童の手作り新聞
鉄筆の頭へりけり夏の昼
緊迫化する戦局と「母の会」
国分一太郎の従軍記『馬の麦』
東条英機内閣と二つの詩
校長先生さようなら
『旗のある丘』の復刊
野の仏とともに―晩年の小島先生
Ⅱ 「学帽」から「戦闘帽」へ―昭和十八(一九四三)年
「僧院」のような学校
ある中学生の『日記』から
教師は教育者ではなく官吏
『日記』が記す入試風景(一)
『日記』が記す入試風景(二)
戦時統制下の入学式
滑稽な教師群像(一)
滑稽な教師群像(二)
ある同窓会記念誌のビンタ考
「紀元二千六百年教師」たち
鯨井寅松校長先生の素顔
一学年の学校生活(一学期)
学年の学校生活(二学期)
Ⅲ 「学生服の労務者」となって―昭和十九(一九四四)年
初めて見る配属将校
黒崎常郎先生の思い出
ペンよりも武器を
「勤労動員令」下る
電波通信機の兵器工場へ
徹底的に学徒を動員にあさる
怠業に陥る職場
厳しい軍令と技師長の過労死
即戦に役立たない学徒
初空爆を受ける「帝都」
Ⅳ 「四・十五」の川崎大空襲―昭和二十(一九四五)年
アメリカ空軍の日本攻略計画
超重爆作戦の第一回攻撃
アメリカ空軍の焼夷弾攻撃
「四・十五」の川崎大空襲
死の海となったロータリー
アメリカ側が報じた戦果
学友・三橋一男の戦災体験記
学校から無視された学友の焼死
Ⅴ 悪夢のような「自画像」―昭和二十(一九四五)年
青春の傷痕を訪ねて
寄組の動員先へ
再び松田・寄を訪ねて
養蚕から葉煙草へ
軍事基地となる松田と寄
本土決戦の第一防衛陣地
松田・寄の戦場に動員
銃後を守る「赤子」となれ
炊事当番の「回想記」
過酷な「蛸壺堀り」
遠い「自画像」
松田山中腹の危険な作業場
厳しい検閲と体罰
単身脱走して両親と再会
Ⅵ 無残な兵器工場の姿―昭和二十(一九四五)年
「一億玉砕」を命じる教師
無残なメリケン波止場の姿
稼動力を失った兵器工場
なぜ「扇島」がねらわれたのか
Ⅶ 国破れて山河あり―昭和二十(一九四五)年八月十五日
花吹雪のような「紙の爆弾」
沖縄戦と二つのキノコ雲
敗戦をどう受けとめたのか
Ⅷ 教師が綴る戦後史―昭和二十(一九四五)年度~昭和二十一(一九四六)年度
『教務日誌』の戦後史(一)
『教務日誌』の戦後史(二)
Ⅸ 「低迷と彷徨」からの夜明け―昭和二十一(一九四六)年度~昭和二十二(一九四七)年度
真摯な古沢秀雄先生
外から吹き込む新しい風
混乱と廃墟の中を生きる
ささやかな青春の夢とロマン
中等野球神奈川県大会で優勝
私にとって忘れ得ぬ歴史書
エピローグ 私たちの使命
忘れ得ぬ送別会
集団カンニング事件
生き甲斐だったサッカー部
忘れ難い庄司信二先生
鯨井寅松校長の授業
最後の戦場と野沢菜の味
きけわだつみのこえ
おわりに
著者プロフィール