「戦場体験」を受け継ぐということ
はじめに
序章 「拉孟」研究と出会うまで
「拉孟」との出会い
女子大生から客室乗務員へ
日本航空の労務政策
客室乗務員から慶應義塾大学大学院へ
小林憲一さんからの「贈物」
Ⅰ 拉孟戦の聞き取りと人脈図
人脈図の概要
第五六師団(龍兵団)戦友会の人脈
慰霊祭・永代神楽祭の出会いと聞き取り
戦友会での出会いと聞き取り
Ⅱ ビルマルートと拉孟
米英中連合軍と「ビルマルート」
日本の南方作戦と「ビルマルート」の遮断
新しいビルマルート「レド公路」の建設
インパール作戦後の最後の決戦
かつての戦場は今…
そこは「辺境」ではなかった
Ⅲ 拉孟全滅戦とは何だったのか
拉孟陣地の構築まで
日本軍の占領体制
「怪しい人形師」の正体
拉孟陣地の構築―一九四二年5月上旬~四四年5月上旬
拉孟守備隊長就任
木下少尉、拉孟へ
堅固な陣地造り
編成と兵力
給水と食料事情
「慰安所」の設置
慰問団の来訪
第一次攻防戦―一九四四年5月10日頃~6月下旬
後方補給路の遮断
米式訓練と中国兵の変貌
第二次攻防戦―一九四四年7月4日~7月19日
日本軍の第一次空中投下作戦
本道陣地の戦闘
戦場の米軍将校たち
第三三軍配属飛行班の誕生
第二次空中投下作戦命令
飛行隊による決死の「感状」投下
「拉孟守兵は自決せよ!」
抽出部隊の投入
意外な投下物
第三次攻防戦―一九四四年7月20日~9月7日
本道陣地陥落
挺身破壊班
空中投下作戦の中止
脱出命令
関山陣地爆破
音部山陣地陥落
松山陣地奪回作戦
最後の時迫る
軍参謀の証言
Ⅳ 拉孟全滅戦を生き延びた人たち
木下昌巳中尉の場合
「俺と一緒に死んでくれ」
横股の壕の中で
歩兵と野砲兵の確執
伝令兵の選出
脱出準備
対岸から見た拉孟陣地の〝最期〟
蔣介石の「逆感状」
報告任務の遂行
にぎり飯の恩
歩兵司令部に到着
早見正則上等兵の場合
拉孟守備隊の全滅の前日
眞鍋大尉の最期
二五名の脱出兵
中国軍輸送隊を襲撃
民家を襲撃
連合軍の捕虜に
昆明捕虜収容所
日本人捕虜名簿
収容所での生活
森本謝上等兵の場合
一九日間の脱出劇
昆明捕虜収容所
朴永心さんの場合
全滅時の「慰安婦」たち
捏造された「美談」
「慰安婦」とは誰か
兵士たちの証言から
戦場の「慰安婦」の本音
「慰安婦」と朝鮮人志願兵
終章 終わらない戦争
遺族訪問
白塔小学校の建設
人名・事項索引
あとがき