鮎川義介
はじめに
Ⅰ 山口での薫陶
没落士族の子
《革命派・井上一門としての意識》
キリスト教との出会い
井上馨の還暦記念
山口高校時代の恩師たち
Ⅱ 反骨とアメリカ
東京帝国大学
職工生活と北海道
《日露戦費調達プラン》
工場見学と日比谷焼打ち
第一回渡米―日本人ではじめて可鍛鋳鉄を学ぶ
《工業技術の実験場アメリカ》
矢頭良一の飛行機製造の夢
第二回渡米―『人生の行路』
Ⅲ 北九州での拠点づくり
戸畑鋳物の創立
久原鉱業の経営と若松移住
小倉での生活
《門司の果物店》
戸畑製鉄から東洋製鉄へ
第三回渡米でのゲーリーとの出会い
貝島炭鉱の改革
下松工業地帯ユートピア構想を歩く
未完の小倉築港
Ⅳ 日産コンツェルンの誕生
「共立企業」の時代
《トバタ発動機》
別府の別荘
久原鉱業への返り咲き
一文字海岸埋立てと戸畑冷蔵
北一輝と日本産業の出現
墨絵をはじめる
満洲事変と日産コンツェルン
プレミアム稼ぎと日産自動車の創業
日本炭礦の設立
《謎のユダヤ人満洲移住計画と朝鮮海峡海底トンネル》
萩史跡産業博覧会の日産館
Ⅴ 満洲に向かうユートピア
GMからグラハムへ
社会主義者・浅原健三との接点
山陽無煙株式会社と日産化学工業
コロムビアとビクター
『物の見方考え方』の出版
キブツをモデルにした満洲重工業開発
鮎川家の記念碑
上海視察で描いた絵
《美代夫人の最初の満洲訪問》
アドルフ・ヒトラーと会う
《ソ連の自動車工業に感心する》
《ロマノフカ村で見た共産社会の限界》
日米戦回避の工作
満洲への諦めと満洲投資証券株式会社
《伊豆大島ユートピア構想》
義済会による大原社会問題研究所の救済
《上智大学「四谷キャンパス」になった紀尾井町の屋敷》
Ⅵ 戦後に引き継がれたもの
巣鴨プリズン
中小企業助成会と日本版TVA構想
革命を待つ心
戦後のテレビ放送と正力松太郎
産業計画会議と鮎川道路構想
東京モノレール
東洋大学の名誉総長となる
没後の追想録
補遺 夢の跡
幻の大分化学工業と湯布院ダム計画
千代田テレビジョン計画の挫折と東京スタジアム構想
鮎川義介年譜/あとがき/主要参考文献/主要人名索引