あゝ学童疎開船対馬丸
序文
沖縄戦の中での最大の悲劇を後世に(財団法人日本遺族会会長・村上勇)
戦争知らぬ若者へ最良の贈物(財団法人沖縄協会会長・茅誠司)
二度と戦争起こせしめない祈りをこめて(衆議院議員・橋本龍太郎)
対馬丸遭難学童遺族会の苦闘史(沖縄県遺族連合会名誉会長・金城和信)
発刊のことば
遺骨が今もなお深海に(対馬丸遭難者遺族会会長・新里清篤)
プロローグ―遭難のあらまし
一 送出
沖縄県の学童疎開業務(仲間智秀)
疎開学童を送り出した国民学校長の苦悩
疎開学童の父親に慰められる(渡久地政功)
「子供を返せ」と学校に抗議(平良仁一)
二 遭難・漂流の記録
連続二発の魚雷が命中(吉田薫夫)
渦巻く船倉に学童らの声(田名宗徳)
舳先から女生徒ら押し落す(当間重善)
いかだを奪い合う大人たち(平良啓子)
島へ泳いだ友らは帰らぬ人(宮里正雄)
転覆したボートの背に(島袋善栄)
命の恩人は船員(堀川澄子)
焼けつく暑さ、こごえる寒さ(儀間真勝)
三つのイカダをつないで(阿波連休子)
いかだにすがって漂泊三日(津波義次)
漂流十七時間、漁船に救助(仲村浩)
トカラの海は悲しく(『船舶砲兵=血で綴られた戦時輸送船史』から)
三 救助・援護の記録
救助船迎えた鹿児島(仲間智秀)
奄美大島同胞の人情(新里清篤)
四 わが子よ
胸いっぱいの悲しみと怒り(新里清篤)
山原疎開していたのに対馬丸へ(具志川智恵)
二人の子に詫び続ける三十三年(渡口真明)
妻と娘、息子は海の底か(具志清繁)
なだめて発たせた息子が(武富良松)
一カ月後、沈没を知らされる(宮里敏宗)
子等の消息求めてさ迷う(上原ツル)
わが家の疎開と吉凶の運命(阿波連朝松)
生きておれば四十九歳(島静夫)
学友疎開先に遺品のトランク(上原伸規)
娘らは父母の心に生きている(外間宏栄)
五 鎮魂の譜
とむらいといのりの記録
沖縄群島政府主催合同慰霊祭
「小桜の塔」建立
十三年忌慰霊祭―海上で地蔵流し
「戦歿学童の像」おくらる
「小桜の塔」改修
悪石島の霊石
ガールスカウトの小桜まつり
『悪石島―学童疎開船対馬丸の悲劇』発刊
小桜のみたまに手作りのヒナ人形
悪石島に供養塔建立
悪石島沖慰霊祭(対馬丸遭難者遺族会役員・上原允)
小桜の塔へ善意の花束
靖国神社に合祀
「日米琉共同主催の慰霊祭」を請願(仲間智秀)
「小桜の塔」玉垣建設
「小桜地蔵尊」の建立
世界救済教整地参拝団主催「海上慰霊祭」
大坂教育塔へ合祀・慰霊祭
殉国沖縄学徒顕彰会と小桜のみたま
遭難現場で海上慰霊祭
皇太子殿下、同妃殿下の尊いお心づくし
両殿下にお礼の琉球人形
吉田嗣延著『小さな闘いの日々』より
三十三年忌慰霊祭でみたま昇天
教育の船―「洋上慰霊祭」
全国戦没者追悼式に新里会長、上原副会長参列
昭和五十二年海上慰霊祭
慰霊祭を終えて・・・・・・TV番組・ドキュメンタリー『死者はいつまでも若い』の台本から
六 とむらいのことば
昭和五十年海上慰霊弔詞
犠牲を報いる決意を新たに(国務大臣・沖縄開発庁長官・植木光教)
「おさなき顔の目には見ゆ」(財団法人日本遺族会会長・賀屋興宜)
遺族の幸福に加護を(沖縄協会会長・大浜信泉)
戦争さえなかったら(沖縄県知事・屋良朝苗)
相携えて平和な国と郷土を(鹿児島県知事・金丸三郎)
「準軍属の国家処遇」の実現に努力(財団法人沖縄県遺族連合会会長・金城和信)
祖国繁栄の人柱(対馬丸遭難者遺族会会長・新里清篤)
昭和五十二年海上慰霊祭弔詞
海底の遺体引上げを(対馬丸疎開乗船生存者代表・当間重善)
語り伝えて平和な世界を(小禄中学校二年・仲間貴子)
昭和四十七年小桜の塔慰霊祭弔詞
暗い波間に火柱が(沖縄県教職員組合委員長・平敷静男)
昭和五十年小桜の塔慰霊祭弔詞
今、小桜の塔の前で(大阪対馬丸をしのぶ会遺族代表・西岡利美)
昭和五十二年小桜の塔慰霊祭弔詞
この美しい海のどこかで(対馬丸遭難者慰霊祭参拝団相愛中学校(大阪)三年・山中三代子)
七 英霊処遇の記録
三つの願い
本土政府に対する請願第一号
昭和三十三年請願
対日本政府陳情に第一歩
遭難学童の遺族へ見舞金
靖国神社合祀
一般遭難者への見舞金と勲八等叙勲
疎開船・対馬丸遭難死没者の処遇について―遺族の訴え
三十三年忌陳情と海上慰霊祭
特別支出金(年金)実現
悲願達成のあしあと(財団法人日本遺族会福祉事業部長・末広栄)
遭難者名簿
あとがき