戦後六十年私たちの記憶
はじめに(川棚史談会会長・小林泰紀)
戦争体験記 砲座の友に爆弾が直撃(堀田政輝)
空襲続きの特攻基地勤務 怖さ感じなくなった時限爆弾(縄本磯治)
私の八月十五日 敵味方になった友人同士(小林泰紀)
兄貴 沈む船上、全員で「君が代」斉唱(荒木貞夫)
知られざるもう一つの特攻基地 目つむって震洋隊志願(溝上正規)
特攻隊になった予科練 戦車爆破へ体当たり訓練(松崎賢治)
中国東北部から引き揚げ 頭は丸刈り、中学生服で男装(吉田京子)
満州電報電話局に勤務 女性も憲兵隊に所属の身分(永崎キクエ)
被爆直後の長崎 大橋下の水際に息絶えた人たち(小島節夫)
私は原爆を見た 西彼杵の山際に真っ赤な膨らみ(辻一人)
片島の望楼から私も目撃 閃光、キノコ雲、破裂音、爆風(尾崎八郎)
原爆の落ちた日 どす黒い雲を竹松から見た(松本チノ)
痛みに泣いた被爆負傷 遺体置き場から助け出されて(松添鶴次)
終戦のころ 生きた心地しなかった機銃掃射(中浦努)
佐世保大空襲のとき国民学校一年生だった 焼夷弾の中を防空壕へ走った(吉田友子)
最後の動員学徒 戦後にやって来た辛い日々(辻川満洲彦)
あの頃のことなど 川棚爆撃で新町の仮駅勤務(原軍三)
学徒の戦中記 動員先は川南、大村、川棚(本城一郎)
終戦までの二年間 田んぼや飛行機工場で働いた(山口マツ)
戦時下の学徒 零戦の部品造りや弁当配達(田崎哲也)
初めての川棚 新駅前の整地や江川橋架橋(竹林勝利)
戦時中の小学校 連日の空襲警報にびくびく(福田美穂)
太平洋戦争の記憶 涙ながらに聞いた玉音放送(今冨スミエ)
終戦前後を振り返って 防空壕掘りや被爆者の介護(矢継ミツ)
初めての敗戦体験 山中に隠れる計画でした(山口フミ)
まず歴史の理解 被害国国民のことを考えよう(井田恵美)
戦後六十年アンケート(川棚史談会全会員)
川棚特集
B24七機が川棚爆撃 赤ちゃん含む69人が犠牲に
大隊長一瀬末松少将 川棚町内戦没者の最高位者
一瀬安正中尉の思い出(溝上正規)
新谷の「特攻殉国の碑」若人三千余柱の名刻む
川棚町に海軍工廠 人口5万の工業都市に
川棚町内の太平洋戦争関係などの遺跡
あとがき
参考小記事
北大東村の現代っ子たち
特攻隊生みの親割腹
敗戦に新聞も茫然自失
被爆者の慰霊碑(尾山)
佐世保大空襲
全焼家屋が1万2千戸
世界最大の重爆撃機
当時東洋一の大型ドック
優れた性能の零戦
零戦より速い紫電改
昭和19年大村大空襲
日本の戦争死者272万余
日対中韓大論争