図書目録ワタクシ ノ ショウワシ資料番号:000056332

私の昭和史 戦後篇下

サブタイトル
編著者名
中村 稔 [著]
出版者
青土社
出版年月
2008年(平成20年)10月
大きさ(縦×横)cm
20×
ページ
464p
ISBN
9784791764372
NDC(分類)
911
請求記号
911/N37/3
保管場所
地下書庫和図書
内容注記
『ユリイカ』2006年1月号から31回分の連載をまとめたもの
昭和館デジタルアーカイブ
和書
目次

17 一高の同級生たちの進路と五中の同級生たちの進路には顕著な違いがあること、『世代』は第二期と第三期の間の空白期、場所を転々と変えながら会合を続けていたこと、第三期『世代』は同人費を徴収しない同人誌であったこと、ほぼ文学同人誌になったこと
、第三期で新たに加わった人々、清岡卓行のシャルル・スパーク論、シナリオ「マキの新婚旅行」のこと、日高晋の「精神の風通しのために」にはじまる一連の社会時評のこと、など。
18 吉行淳之介の「原色の街」のこと、『世代』には仲間褒めという習慣がなかったこと、八木柊一郎の戯曲「債権者会議」のこと、私の詩「海そのほか」四篇のこと、このころ平井啓之と親しかったこと、平井の「三つの浦島物語」のこと、菅野昭正の「堀辰雄論」のこと
、小川徹の評論のこと、大野正男と村松剛の評論のこと、いいだもものローマ字表記の詩のこと、出英利の事故死と矢牧一宏の追悼文のこと、出夫人林聖子さんを知ったこと、など。
19 昭和二十六年五月『文学51』が創刊、私は日高晋、小川徹とともに文明時評を担当したこと、全面講和か単独講和か、国論を二分したサンフランシスコ講和条約と一体をなす日米安全保障条約の実体は後日調印された行政協定
、日米施設協定が公表されるまで世人には分らなかったこと、昭和二十七年四月、弁護士登録し、中松澗之助先生の下で働くことになったが、事務所が丸の内に移転してから勤めるように言われ、毎日遊んでいたこと、など。
20 昭和二十七年五月一日のメーデー事件について、昭和四十五年一月に一審判決が、昭和四十七年十一月に二審判決が言渡され、第一次、第二次の乱闘について騒擾罪の成立が完全に否定されたこと、判決の認定は警官隊がデモ隊に襲いかかったという梅崎春生らの現場証言の
とおりであったこと、無統制、軽率なデモ隊と警察の過敏な防衛反応によっておこった、この騒動を朝日、毎日、読売各紙はデモ隊の組織的争乱という「でっちあげ」記事でデモ隊を非難したこと、など。
21 米川丹佳子夫人のこと、夫人と私たちの関係、昭和二十六年夏、北軽井沢の米川山荘にお邪魔したこと、そのさい、岸田衿子さんを知ったこと、米川和夫のポーランド訳詩集『北の十字架』のこと、昭和二十七年夏から大森の中松事務所に勤めはじめたこと、当時の事務所の状況
、私が特許法とその実務に無智であったこと、「味の素」商標の海外諸国の登録に苦労したこと、そのころミステリーを濫読していたこと、日高晋と年子さんの結婚のこと、など。
22 昭和二十八年三月、中松先生が第二東京弁護士会の会長に立候補し、当選したこと、弁護士会の派閥のこと、『詩学』五月号の「作品月評」で鮎川信夫らが私の詩「凧」や谷川俊太郎ら三名の詩を酷評したこと、伊達得夫と「現在の会」の関係
、伊達が真鍋呉夫の内灘闘争ルポタージュの刊行を企画し、悲惨な体験をしたこと、昭和二十八年九月号からしばらく『詩学』の「詩壇時評」を担当、鮎川の評論を批判し、鮎川が反論したこと、など。
23 小田久郎を知り、『文章倶楽部』に詩「夏」を発表したこと、小田と伊達の性格の違い、「プレイガイド」を代理して「赤木屋プレイガイド」に提起した訴訟で敗訴したこと、『詩学』昭和二十九年一月号の座談会「二十代の発言」に出席し、嵯峨信之、木原孝一
、若い詩人たちを知ったこと、昭和二十九年三月、事務所が三菱二十一号館に移転したこと、同僚、食事、理髪などのこと、兄の結婚、清岡卓行との交際、当時の清岡のこと、など。
24 昭和二十九年三月のビキニ環礁の水爆実験のこと、伊達得夫が昭森社ビルに入りこんだ経緯、昭森社ビルと森谷均のこと、東京駅で、偶然、伊達と出会って『戦後詩人全集』の企画について意見を求められ、賛成したこと、昭森社ビルに移って伊達の出版活動が本格化したこと
、『戦後詩人全集』の画期的意義、小田久郎の『戦後詩人全集』批判に同意できないこと、昭和二十九年十一月、第ニ詩集『樹』を刊行したこと、など。
25 国選弁護人としての僅かな経験から感じたこと、富士フィルムのカートンの色彩に関するイーストマン・コダック社のクレームのこと、富士フィルムのHさんの仕事ぶり、弁護士倫理のこと、Hさんからうけた接待、昭和三十年春ころ安東次男を知ったこと
、『現代詩』昭和三十年五月号に「雨ニモマケズ」論を発表したこと、大岡信『現代詩試論』等で書肆ユリイカが地歩を固めたこと、浦和に移った日高晋と法律を勉強したこと、など。
26 昭和三十年初夏、桐山和子を知ったこと、彼女が広島原爆の被爆者であったこと、彼女の境遇、性格、秋に婚約したこと、クロルテトラサイクリンという抗生物質の特許によりアメリカン・サイアナミッド社から訴えられた明治製菓を代理して敗訴したこと
、大宮の高鼻二丁目に新居を建築、翌年三月に結婚、兄が小児科医院を開業、始終麻雀に耽っていたこと、スターリン批判、ハンガリー動乱による衝撃、米川夫人からの借金で伊達得夫が詩誌『ユリイカ』を創刊したこと、など。
27 詩誌『ユリイカ』の編集方針が新鮮であったこと、吉本隆明・武井昭夫の『文学者の戦争責任』に関する清岡卓行の発言と私のかかわり、戦争責任についての私の考えなどのこと、私たちの新婚生活、私と和子の育った大阪の商家との文化の違いによる諍い、当時の電話設置の事情
、母の和子に対する嫁いじめのこと、昭和三十一年十一月三十日、長女が生まれたこと、詩「誕生」のこと、など。
28 『ユリイカ』昭和三十一年十一月号に「中原中也の生活」を発表したこと、同号の関義の中原の回想、大岡信「中原中也と歌」、昭和三十二年三月チャタレー事件最高裁判決が言渡されたこと、多数意見と真野毅判事の少数意見、ポルノグラフィー自由化のこと
、田中耕太郎長官に対する嫌悪と敬意、三好達、矢口洪一元長官の言動、ハーバート・ノーマンの自死とマッカーシイズム、『ローマの休日』のこと、アメリカの集団的ヒステリー傾向のこと、など。
29 『ユリイカ』が遠藤周作「沈黙の声」をはじめとするすぐれた評論を掲載したことによる成果、私が昭和三十三年一月号から「宮沢賢治ノート」を連載したこと、篠田一士、丸谷才一、中山公男の「きのう・きょう・あす」の連載
、書肆ユリイカは昭和三十三年後半から翌三十四年前半に自立したとみられること、昭和三十四年から三十五年、伊達得夫が『現代詩全集』を刊行したこと、小田久郎の『現代詩全集』批判には同意できないこと、など。
30 昭和三十二年十一月十七日次女が生まれたこと、長嶋と金田の初対決など、プロ野球のヒーローたちのこと、高鼻三丁目の家に転居したこと、昭和三十四年、皇太子ご成婚パレードをわが家のテレビで伊達一家と一緒に観たこと、石垣りん「愚息の国」のこと
、六〇年安保改定に対する私の態度、丸山眞男「選択のとき」などのこと、全学連主流派の国会突入は謀略であること、樺美智子の死、新聞七社の七社宣言と自然承認により新安保条約が成立したこと、など。
31 昭和三十四年五月、アーマー・リサーチがソニーの磁気テープ工場の証拠保全手続をとったことが契機となって、当時のソニーの井深社長、盛田専務、担当課長四元徹郎さん等を知ったこと、昭和三十五年三月、角川書店刊の第二次『中原中也全集』を編集したこと
、大岡昇平夫人のこと、いいだももの『斥候よ 夜はなお長きや』のこと、昭和三十五年八月、伊達得夫が大久保の中央病院に入院し、十一月に退院したが、翌三十六年一月六日に慈恵医大病院に入院、一月十六日に他界したこと、など。
後記

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