図書目録ワタクシ ノ ショウワシ資料番号:000056331

私の昭和史 戦後篇上

サブタイトル
編著者名
中村 稔 著
出版者
青土社
出版年月
2008年(平成20年)10月
大きさ(縦×横)cm
20×
ページ
430p
ISBN
9784791764365
NDC(分類)
911
請求記号
911/N37/2
保管場所
地下書庫和図書
内容注記
『ユリイカ』2006年1月号から31回分の連載をまとめたもの
昭和館デジタルアーカイブ
和書
目次

1 昭和二十年八月十六日、私たち一家が父の任地、青森に向かって上野駅を発ったこと、八月末まで青森刑務所の職員倶楽部兼武道場に仮住まいし、九月、弘前の借家に転居したこと、戦後の一高の寮の食糧事情、弘前の生活、九月中旬、一高の寮に戻り、中野徹雄らと再会したが
、間もなく弘前に帰省したこと、十月下旬、上京のさい、盛岡で途中下車し、盛岡刑務所で医師をつとめていた兄と会い、小雨ふるなか、北上川のほとりで話しこんだこと、その日の感慨を「陸中の国 盛岡の町よ」と結んだ四行詩に書いたこと、など。
2 戦後、一高では理科から文科への転科、陸海軍諸学校等からの転入があったこと、いいだもも、中野徹雄らが『世代』発刊を計画していたこと、矢牧一宏のこと、列車の混雑、切符の入手難、冬の弘前の風景、最勝院の五重塔のこと
、駅前の貸本屋に出入りする青年たちと知り合ったこと、アマチュア劇団が上演した「鯨」を観たこと、野坂参三が帰国し、「愛される共産党」と語ったこと、これを欺瞞的と感じたこと、など。
3 一高の寮で不足していた電球の入手、電熱器の風呂の製作、水洗便所の修理などに寮幹事が苦労したこと、一高生のエリート意識と学閥による特権の余沢に与っていたこと、幹事制から委員制への復帰と寮の自治制のこと、食糧難のため頻繁に休校となり
、弘前との間を何度も往復したこと、帰省中、八郎潟の近くに愛人と生活していた親戚を訪ね、近傍を彷徨し、詩「ある潟の日没」を書いたこと、など。
4 昭和二十一年五月、弘前城の花見に太宰治さんのお伴をしたこと、からない坂付近の山林で山菜採りをしたこと、父が青森地裁から水戸地裁に転任になったこと、六月、寮に戻ったこと、正門主義の維持か、廃止かについての論争とその結末、『向陵時報』の復刊
、いいだももの評論「中原中也の写真像」、その他、同紙に掲載された小説等のこと、丸山眞男「超国家主義の論理と心理」、および竹山道雄「鴿」について私が抱いた感想、など。
5 昭和二十一年七月、『世代』の創刊、第六号までの第一期における『世代』と私との不即不離の関係、『世代』の「家鴨宣言」など、第一期『世代』掲載の中村真一郎、加藤周一、福永武彦三氏の「CAMERA EYES」、矢牧一宏の小説「脱毛の秋」、網代毅の詩「再びなる帰来の日に」
、太田一郎の短歌「無花果」、吉行淳之介の詩「盛夏」、小川徹の「人格からの脱出」、八木柊一郎の「放心の手帖」、岡義武「ワイマール共和国の悲劇」、ベルジャーエフ・中野徹雄役「ソヴイエト革命論」のこと、私の小説「鯨座の一統」のこと、など。
6 原口統三の自死までの約二ヵ月、かなり親密な交わりをもったこと、原口は十月二日赤城で自死を図って果たさず、極度に憔悴して寮に戻り「二十歳のエチュード」の推敲にうちこんでいたこと、十月二十五日深夜、逗子海岸で入水自死したこと、友人たちの彼に関する回想
、彼の自死の論理と私の感想、私たちが共有した精神的風土についての中野徹雄の考察、原口の母堂への思慕と望郷の思い、原口の「風土のふるさと探し」の旅行、家系的な資質、母堂が引揚げ後、しばらくして逗子を訪れたこと、など。
7 伊達得夫が一高の寮に訪ねてきたこと、新憲法の制定手続について私が感じていた疑問、「国体」に関する貴族院での論争、『世代』創刊号の佐藤功「近代憲法への出発」、宮沢俊義教授の「八月革命説」、新憲法について考えていたこと、東京裁判は報復的儀式と考えていたこと
、東京裁判の被告人たちの態度のこと、一高全寮晩餐会における、戦争中、田中耕太郎が網走刑務所の志賀義雄をたびたび見舞っていたという秘話を披露した志賀の演説と田中耕太郎の反論のこと、など。
8 日高晋が寮に訪ねてきたこと、『向陵時報』復刊第二号の宇田健の小説「近代人」のこと、一高に社会科学研究会が設立されたこと、昭和二十一年十二月、高原紀一らが太宰治、亀井勝一郎両氏をお招きした会合で三島由紀夫氏と同席したこと、帰途、三島氏と同行したこと
、寮の燃料不足、規律の乱れ、南寮一番室の山本巌夫らとの交友、二・一ゼネストの中止のこと、『向陵時報』復刊第三号の中野徹雄の評論「汝は地に」のこと、橋本功の短歌のこと、出席日数が不足していたが、五味智英教授の配慮で卒業できたこと、など。
9 昭和二十二年四月、東大法学部法律学科に入学、家計が苦しかったこと、そのため水戸で遊んでいたこと、教科書等を買うため上京したとき、偶然、三島由紀夫氏に出会い、三島氏が東大構内を案内などしてくれたこと、『二十歳のエチュード』が昭和二十二年五月に
前田出版社から出版されたこと、原口統三の墓碑を立てるため、橋本一明らと赤城に登ったこと、九月、『世代』が復刊したこと、第二期『世代』の筆者はほとんど私たちの仲間だったこと、『世代』に掲載された中野徹雄、いいだももの評論等のこと、など。
10 昭和二十二年の秋から、大宮の篠原薬局に居候したこと、大学の授業に失望したこと、森川町の麻雀屋で時間を過すことが多かったこと、やがて麻雀について自分の実力を思い知ったこと、共産党に入党を勧められ、断ったこと、日本資本主義論争の著書を濫読していたこと
、法律への眼を開いてくれた我妻栄『近代法における債権の優越的地位』、大塚久雄『株式会社発生史論』のこと、など。
11 伊達得夫が私の探偵小説をカストリ雑誌に売りこんでくれたこと、向島の伊達の新居を訪ねたこと、昭和二十三年二月、書肆ユリイカから『二十歳のエチュード』が刊行されたこと、その経緯は若干不透明であること、伊達の苛烈な戦争体験と人間性のこと、当時
、白井健三郎さんが私にとっての文学的、思想的に開かれた窓であったこと、白井さんの奥様の臨終記「はりつけ」のこと、私の斡旋で橋本一明、都留晃が白井家に同居したこと、菅野昭正を知ったこと、など。
12 占領政策の転換のこと、昭和二十三年四月の出隆先生の共産党入党、東宝争議、祖父の死去と葬儀のこと、七月、父が水戸地裁から千葉地裁に転任したこと、八月十七日の『朝日新聞』で本庄事件が大きく報道され、旧友岸薫夫が脚光を浴びたこと、本庄事件として報道された警察
、検察当局と暴力団の癒着のこと、占領軍軍政部の支持をうけ、青年たちが癒着排除の諸項目を決議したこと、山本薩夫監督の映画『暴力の街』のこと、など。
13 昭和二十三年秋ころからプロ野球を観るようになったこと、別所引き抜き事件のこと、東京六大学野球も熱心に観ていたこと、法政の関根潤三のファンであったこと、サンフランシスコ・シールズの来日と関根の好投、東大野球部では一高の同窓が活躍していたこと
、昭和二十三年九月、相澤諒が服毒自死したこと、相澤の詩と詩論のこと、『芸術』に詩を発表した機会に亀島貞夫さんを知ったこと、いいだが『展望』に発表した評論と戯曲のこと、など。
14 昭和二十三年十一月、極東国際軍事裁判の判決が言渡されたこと、戦争責任のこと、「宮沢賢治序説」を書いたこと、昭和二十四年八月に司法試験を受けたこと、物情騒然たる状況下で、日本共産党は「人民政権への闘争が現実の日程にのぼった」と夢想していたこと
、占領軍の特権、検閲、占領政策批判による懲罰のこと、「海」などの十四行詩を書いたこと、朝日新聞社への入社も考えたが、結局、司法修習生になることにきめたこと、など。
15 昭和二十五年四月、父が東京高裁に転任になり、一家は大宮にひきあげたこと、四月から二年間、私は司法修習生としてその課程を履修したこと、指導教官の方々のこと、司法修習生として法律を現実の紛争に適用するさいのダイナミズムを学んだこと
、平本祐二が珠江さんと結婚したこと、平本の人柄、司法修習生の課程を終えたこと、昭和二十五年九月、書肆ユリイカから詩集『無言歌』を刊行したこと、刊行にいたる経緯、など。
16 昭和二十五年春ころから、大岡昇平さんの助手として創元社版『中原中也全集』を編集、杜撰な編集をした私の無智のこと、昭和二十五年一月、コミンフォルムが野坂理論を批判、日本共産党は、紆余曲折の結果、昭和二十六年十月、五一年綱領により、武装闘争を確認
、私は常軌を逸していると考えたこと、朝鮮戦争と私が『人間』に発表した詩「声」のこと、プロ野球がセパ二リーグに分裂、私が好きだった選手たちのこと、など。

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