庶民が支えたあの戦争は…
はじめに 「誰がこの責任を取ってくれるのですか」
Ⅰ 体験証言
「とうとう、乳が一滴もでなくなりました」(札幌・食糧難)
「衰弱死した次男は空襲の犠牲者です」(東京の空襲・札幌の食糧難)
「小さいながらに淋しさを押し殺して…」(東京・学童疎開)
「死ぬも地獄、生きるも地獄」(広島・被爆体験)
「毒ガスを製造した私も加害者の一人です」(大久野島・毒ガス製造)
「生き残った後めたさと喜びと」(沖縄戦体験)
繰り上げ卒業・学徒出陣・強制「志願」(小樽・札幌)
「現地の貧しい姿に心うたれて…」(東南アジア・操舵見習士官)
「空中で赤ちゃんを突き刺すのをみた」(マレーシア・被害関係者)
「母はひとこと”父さんは北海道に行ったよ”とだけ」(韓国・強制連行遺族)
「従軍慰安婦は憲兵が連行」(従軍慰安婦関係)
兵隊の間では「共同便所」と言っていた、と語る木村義雄さん(中国東北部)
「南支」軍の拠点広東市の慰安所につて証言する東重孝さん(中国南部)
朝鮮人慰安婦の赤ちゃんを助けようとしたA子さん(インドネシア・氷川(ひかわ)丸)
「”大阪の工場ではたらいてもらう”と慰安婦にされた」(アジア諸国・元従軍慰安婦)
「私の指揮で四十五名を日本刀で処刑した」(旧満州・「無人区」化作戦)
「検察官・書記官・通訳書記官で拷問した」(旧満州・「無人区」化作戦)
「関東軍は、阿片をヤミで流して、資金源にしていた」(旧満州・阿片「闇流し」)
「悪いことだと思い、部落民を逃がしてやった」(旧満州・八路郡全滅作戦)
「戦争は、もうこりごりだな、やってはならんことだ」(旧満州・部落全滅作戦)
「私は得意になって、八路郡兵士を刺突した」(中国北部・三光作戦)
「討伐作戦で捕虜を斬首、私も一人を刺殺した」(中国北部・八路郡全滅作戦)
「農民を殺しても、鶏や豚を処理したような…」(中国北部・三光作戦)
「村に男がいたら残らず殺した」(中国北部・八路郡全滅作戦)
「殺しつくし、奪いつくし、焼きつくしてまわった」(中国北部・三光作戦)
「抗日遊撃隊として戦い、日本に連行された」(中国北部・抗日闘争)
「私は毒ガス使用と南京虐殺を見聞した」(中国北部・中部)
「”馬は赤玉に強いんだなあ”が頭にこびりついて」(中国南部・従軍体験)
「いきなり銃で撃ちました」(旧満州・「集団自決」)
「関東軍に助を求めたが…」(旧満州・「集団自決」)
「誰がこの責任をとってくれるのですか」(旧満州・「集団自決」)
「私の前で機関銃が発射」(旧満州・「集団自決」)
「私は母の両脚の間にだかれて」(旧満州・「集団自決」)
「せめて子供は逃がしてほしかった」(旧満州・「集団自決」)
一日三百グラムの黒パンを命のかてとして(シベリア・強制労働)
「きさま達の腰の物はどこへいった!」(シベリア・日本軍の正体」
Ⅱ 毒ガス証言の検証 くしゃみ性毒ガスの“赤玉”は、致死性があるか
Ⅲ 北海道における朝鮮人兵士動員
Ⅳ これからの平和主義
資料
北海道の動員兵士と戦没者
道警資料・近時ニ於ケル食糧事情(昭和二十年四月)
道警資料・内鮮關係(昭和二十年四月)
道警資料・華人勞務者ノ移入ニ關スル事項(昭和二十年四月)
大久野島で製造された主な毒ガス表
支那事變ニ於ケル化学戰例証集(『陸軍習志野学校案』一九四ニ年十一月)
毒物及び劇物取締法
極秘 特高関係要警戒人物一覧簿(下)
主な参考図書・文献
あとがき