図書GEN000050488

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サブタイトル1~10
掛川源一郎が見た戦後北海道
編著者名
掛川 源一郎 著者/山口 昌男 寄稿/吉田 ルイ子 寄稿/工藤 正廣 寄稿/大日方 欣一 寄稿
出版者
北海道新聞社
出版年月
2004年(平成16年)4月
大きさ(縦×横)cm
20×30
ページ
167p
ISBN
489453293X
NDC(分類)
211
請求記号
211/Ka24
保管場所
開架写真集
内容注記
並列タイトル:THE PHOTOGRAFHIS OF KAKEGAWA GEN‐ICHIRO 並列タイトルは表紙による おもに写真 著者の肖像あり 掛川源一郎年譜:P164‐165 サブ人名はブックジャケットによる
和書
目次

平取(ひらとり)・1968
沙流川
アイヌ民族のふるさとの川。

伊達・1957
蒸気機関車が往く
蒸気機関車が勢いよく走り抜けたが、古タイヤで遊ぶ少年たちは無関心だった。

長万部(おしゃまんべ)・1960
隣同士、幼なじみの男女

壮瞥(そうべつ)・1956
昭和新山初登頂の記念撮影
伊達高校科学部の生徒たちと私。

長万部・1963
ある日のアイヌコタン
長万部町旭浜。まち外れのその集落には、茅葺の家や電柱に登って遊ぶ子どもたちの姿があった。

風連湖・1975
氷原帯を行く
コマイの氷下網待ちの漁の漁民たち。

喜茂別(きもべつ)・1969
沃野にそびえる尻別岳
孤峰、尻別岳(一一〇七メートル)。アイヌの人たちはこの山を男山、羊蹄山を女山と呼んでいた。

白老(しらおい)・1967
独りぼっち
アイヌコタンの昼下がり。人影のない空き地で仔グマが遊んでいた。

今金(いまがね)・1963
「吹雪いてきたね」

襟裳(えりも)・1960
我は海の子
赤ふんどしの少年がいた。

様似・1975
重いほど明るい笑顔

室蘭・1956
姉弟
トッカリショのコタンで。

伊達・1960
考え込む
不漁の冬、家にひとり残っていた老漁夫。

白老・1962
子守のフチ
ススキの穂のなびく秋、白老のコタンに働きに来ていた虎尾ハル・フチ。

寿都(すっつ)・1960
のんびり行こう
普通列車は、茶の間の延長であり、食堂でも寝室でもあった。

白老・1962
客待ち顔のエカシ
白老旧アイヌコタン。観光客を待つエカシが立っていた。

平取・1967
お祭り騒ぎのイヨマンテ会場
たいへんなにぎわいを見せたイヨマンテ(クマ送り)だったが、この年一回限りで終わった。

長万部・1956
雪原を行く
長万部町平里の開拓地。切り株を掘り出した後の土地改良。客土する馬橇の列が雪原を進む。
(※平里の開拓については140頁に解説)

長万部・1963
開拓農家に夕陽が差す
広い開拓地に建つ仲宗根家。二度目に建て直したものだが、小さな平屋だった。

伊達・1964
手鏡する少女

白老・1962
器用な仔グマがいた
白老旧アイヌコタンの売店で。仔グマが器用に立って牛乳を飲んでいた。

長万部・1960
消石灰を撒く
消石灰を撒く平里の仲宗根氏。開拓地は、泥炭地の湿地であり酸性土。毎年土地改良が続けられた。

留萌(るちい)・1961
冬の海に採る
時化の磯に、岩海苔を採る漁民がいた。

瀬棚・1962
かつての千石場所
ニシンの千石場所としてにぎわったまち並み。当時の倉庫や看板が、昔日の面影をとどめていた。

長万部・1958
「ボクはひとりで滑るんだ」

弟子屈・1983
別れの踊り
アイヌ民族の伝統祭儀「シマフクロウのイヨマンテ」。本祭の夜、広場の祭壇の前で松明をかかげて踊る。(149頁の解説参照)

静内(しずない)・1974
シャクシャイン祭り
静内の真歌丘公園にはキムン・クワ(山杖)を握って天をにらむ英傑の立像や頌徳碑などが建ち、全国のアイヌ民族有志が参加する、厳かな供養祭が営まれる。
(※シャクシャイン祭りについては138頁に解説)

阿寒・1968
湿原のカムイのように踊ろう
アイヌ民族の伝統儀式「鶴の舞」。丹頂鶴のように、大きな翼を広げて舞えや踊れや。

阿寒・1968
フチは陽気に踊る
(※四宅ヤエ・フチについては136頁に解説)

阿寒・1969
キツネ踊りと観衆
阿寒湖マリモ祭の名物のひとつ。湖畔の広場の祭壇の前で、キツネ踊りを奉納披露する四宅ヤエさんと、長男豊次郎氏の親子。群衆からヤンヤの喝采を浴びていた。

阿寒・1973
踊りくらべで「負けてたまるか」
「踊りくらべ」での四宅ヤエさんの熱演。二人の女が向き合い、腰に両手をあて、上体を前後に屈伸しながら、長い髪を激しく振り回して踊る。相手が倒れるまで続けられるのだった。

阿寒・1970
日蝕の魔除けの儀式
日蝕が始まると、剣を振りかざして足を踏み鳴らし、木の箱をはげしくたたいて、にぎやかに魔神を追い払った。中央で箱をたたいているのは四宅ヤエ・フチ。

長万部・1969
旧コタン冬景色
旭浜は、かつてのアイヌコタン。茅葺きのチセ(家)が散在するぬかるみの道を、二人乗りの自転車が通り過ぎた。

礼文(れぶん)・1965
冬の浜の子ら
弟を背負った女の子が、「重いけど、めんこい(可愛い)んだよ」と言いながら冬の浜で遊んでいた。

伊達・1961
赤子を背負って
「舟もこうなったらおしまいだがな」とこぼしながら修理に余念がない赤子を背負った漁師。

豊浦(とようら)・1958
子守していて

平取・1978
早春のアイヌコタン
家が一軒だけでも、コタンといった。かってのチセを、伝統的な作り方と技術で復元したもの。

伊達・1954
冬のバチラー夫妻記念堂
冬の有珠コタン。雪の原となったアスパラガス畑の向こうの「神の丘」に、記念堂が古城のように建っていた。

伊達・1960
バチラー八重子の横顔
このとき、窓から美しい夕陽が差し込んでいたのを覚えている。
(※バチラー八重子については134頁に解説)

伊達・1961
日曜学校に来た女の子
少女は一人で教会前の岩陰に体をひそめていた。八重子の話を聞いていたのだろうか。

伊達・1961
茶の間の日曜学校
教会の燃料がなくなったので、自宅で日曜学校を開いていた。八重子はつねづね、お祈りさえ上手にできれば十分だと教えていた。

伊達・1967
バチラー夫妻記念堂前で
戦時下で信仰の灯が絶えた記念堂は荒廃したままだった。私は、同僚の岸不二雄氏の力を借りながら、まちの有力者五十名あまりの写真を撮影、写真展を開き献金をお願いした。
八重子の晩年を追った私の写真集『若きウタリに』の印税の一部を加えた約十八万円が改修の基金となった。聖公会北海道教区では、それらをもとに、総工費約七十万円で記念堂を改修。その竣工祝賀の記念写真である。

聖書を抱くバチラー八重子
聖書を抱いて、自宅近くのバチラー夫妻記念堂に通う八重子。裏道の方が近かったが、日曜学校のある日は正門から入る習慣だった。彼女の姿を見ると、子どもたちが教会の鐘を鳴らし、まだ自宅にいる子どもたちに学校の始まりを知らせていた。鐘は、遠くまで良く響いた。

平取・1970
エカシふたり
存在感あふれる森竹竹市(右)と山本多助の両エカシ。

阿寒・1969
湖上で釣りをする山本多助エカシ
凍結した冬の阿寒湖で、山本多助エカシがアイヌ式の釣りを実演してくれた。雄阿寒岳をバックに吊されたサラニプ(編み袋)が、民族の豊かな日常をしのばせた。

壮瞥・1967
キムンカムイを祀る
イヨマンテの一場面。ヌササン(祭壇)の前に供えたキムンカムイ(山の神=ヒグマ)にカムイノミ(神事)を行う森竹竹市(左)と尾澤カンジャトクの両エカシ。
(※イヨマンテについては136頁に解説)

阿寒・1975
タクサで仔グマから魔物を追い払う
阿寒町のアイヌコタンの広場で行われたイヨマンテ。タクサ(クマイザサ)で仔グマの周囲から魔物を追い払う儀式。

斜里(シャリ)・1966
海から切り立つ
オホーツクの深い海底からいきなり盛り上がったような断崖。

白老・1970
民族の誇る貌(かお)。森竹竹市エカシ
民族の誇りと尊厳を具えた顔には、かつての民族解放運動闘士の逞しさと、抵抗詩人としての哲人の面影があった。

平取・1968
小川もまたカムイ
イナウ(木幣)の立つ水辺には、さざ波が光っていた。川の水も神聖なカムイとして祀られた。

白糠(しらぬか)・1973
鯨踊り
白布をかけた流木を寄り鯨と見なし、鯨の肉をついばもうとたかるカラスの群を、黒衣をまとって舞う女性たちで表現し、男が木片を叩いてカラスの群を追い払おうとしている。道東に伝わるアイヌの遊びフンペ・ウポポ(鯨踊り)を四宅ヤエ・フチの演出で再現してもらった。

静内・1964
凛々(りり)しい少年
学生帽の凛々しい少年が、私がカメラを向けると、かたわらの友を強く抱き寄せた。

阿寒・1973
小春日和
「パッカイペ」(荷負い縄)を額にかけて幼児を背負う。アイヌ民族に伝わる生活の知恵を四宅ヤエ・フチに再現してもらった。

弟子屈(でしかが)・1983
湖のカムイを祀る
屈斜路湖畔に咲いた白い野の花のようにすがすがしいイナウ。コタンコロカムイのイヨマンテ(シマフクロウの祭り)で。

伊達・1978
新火口原
大噴火で誕生した有珠山の新火口原には、装いも新たに、白い火山性ガスが噴き上がっていた。
(※有珠山については143頁に解説)

伊達・1986
噴火という名の芸術
噴火の猛威は原生林に襲いかかり、前衛芸術も顔負けのトルソーやオブジェを創造した。

伊達・1979
ここにも噴火の創造があった
有珠山の噴火で飛び散った岩石は火山灰に埋もれたが、被災樹の影が、一幅の枯山水を描いた。

伊達・1978
旧火口原
山頂(大有珠)は裂け、岩は砕け、原生林は一木一草もあまたず焼けただれていた死の世界だった。

襟裳・1949
山間のスケートリンク
山間の村には、水田の凍った天然のスケートリンクがあり、子どもたちが嬉々として遊んでいた。

伊達・1978
銀沼火口
有珠山では、大爆発に続いて有珠新山を生成する小爆発が数年続いた。新たにできた銀沼火口は、マグマの荒い息吹のような白煙を噴き上げていた。

札幌・1955
冬のラジオ体操
大通西五丁目のさっぽろ雪まつり会場では耐寒ラジオ体操が行われた。

寿都・1971
小屋掛けの見物席・寿都町の運動会
寿都はかつてのニシンの千石場所。ニシンが幻の魚になって久しいこの町の名物は、九十年来続いてきた、小学校の運動会の小屋掛けの見物席だった。
難民収容所と評したマスコミもあったが、この日ばかりは空っぽになって、老若男女が運動会に興じる。早朝から材料を運んだ荷車やリヤカーが殺到して陣取り合戦。
観戦中は、家族は飲み食いしながら我が子を応援。終われば我勝ちに小屋を畳んで帰途につく。私は二年続けて取材したが、新しいグラウンドが別の土地にできたために、小屋掛けは残念ながらこの年で姿を消した。
私のカメラ・ルポは、「捕虜収容所に非ず」というタイトルで「週刊現代」の口絵を飾った。

室蘭・1954
古雑誌を売る女の子
路傍に屋台を置き、古雑誌や古絵本を積んで売っている少女がいた。赤ん坊を背負い、角巻きをまとっている。今なら新聞ダネになりそうな孝行娘だろうが、戦後のこの時期では、ありふれた風景のひとつだった。

豊浦・1969
仲良く抱き合って
髪はボウボウで着衣も汚れ裂けているが、二人の絆は確か。姉妹か友達か…。貧しさを誇っているような少女たち。

伊達・1959
重い弟を背負って、平気よ

伊達・1960
流木を拾って帰る。「急げや急げ」

伊達・1958
見物に夢中なおばあちゃんの背中で

様似・1960
「重いなァ」。オンブして、おまけに雨だわ

室蘭・1960
昆布干し

伊達・1948
「おじいちゃん、上手だね」
祖父と孫娘が留守番をしていた。たいくつしのぎに、祖父がバリカンで頭を刈りだす。音も立てずにわずかな髪の毛が落ちた。熱心に見つめる娘。貧しい漁家のひとこま。

伊達・1946
「あたいの大事な服がこんなになっちゃったァ」

襟裳・1960
「どっこいしょ」
昆布を精いっぱい背負う健気な女の子。

伊達・1958
吹雪を避けて物陰で待つ女
カメラ・ルポ「石炭拾い」の一枚。石炭を降ろした台車が駅構内の引き込み線に入ってくるのを待っている。
(※石炭拾いについては143頁に解説)

伊達・1962
居ない居ないバァー!

長万部・1980
夏草茂る開拓地の一本道
以下82頁までは、長万部町平里、仲宗根一家の開拓を追ったシリーズ。

長万部・1956
地中から掘り出した根株の山は、巨大な城砦(じょうさい)のようだった。

長万部・1959
馬耕する仲宗根氏

長万部・1966
姉と弟

長万部・1964
「ボクも手伝っているんだ」
ジャガイモは、開拓農民にとって最初の貴重な食料であり、収穫だった。

長万部・1978
家族全員で記念写真を撮った。
飼い馬もいっしょ。

寿都・1960
「ボクも拾ってるんだ」
不漁にあえぐ漁家にとって、寒中の流れ昆布拾いは大切な仕事。子どもを含めた一家総出で。

室蘭・1961
トッカリショの漁家
トッカリショ(アイヌ語でアザラシの居る所)の断崖の下の小さな入り江には、数戸の漁家があった。船内にある車を回して漕ぐ古風な漁船で、太平洋の荒波に乗り出していく。
魚を市まで運ぶのは女の仕事。魚をずっしり背負ってつづら折の急斜面の小径を登り、市場まで運ぶ重労働をこなしていた。

室蘭・1961
トッカリショの漁師
「今日の漁はタコが二匹だよ」

寿都・1965
ニシン漁の船着き場跡
ニシン千石場所の夢の跡。腐りかけた棒杭が波に洗われていた。

豊浦・1969
礼文華(れぶんげ)の名物漁師
陶文太郎氏が帰漁して舟を引き揚げる。陶氏は、短い松葉杖を両脇に当てて、ブランコのように上体を前後に振りながら跳ねるように歩く。舟の操作も驚くほど巧みだった。
(※陶氏については137頁に解説)

豊浦・1969
長男の嫁と息子
陶さん一家が住む入り江は、箱庭のように美しかった。

豊浦・1969
孫を連れて浜へ

豊浦・1969
逞しい面魂(つらだましい)の陶さん

伊達・1967
噴火湾に浮かぶ駒ヶ岳

豊浦・1977
雪中に魚網を解く

伊達・1961
年輪を刻む顔の老漁師が、沖模様を眺めていた

伊達・1966
白鉢巻の海の男が私のカメラを見た
この頃噴火湾一帯は不漁が続き、漁家の困窮は激しかった。しかしこの年の秋、有珠の入り江は思いがけないハタハタの大量にわく。この漁師は、魚を運ぶ盤台に山盛りにして、ハタハタを私の家まで届けてくれた。いかに大漁とは言え、その気前の良さに驚かされ、感謝した。

白老・1968
シヌイェ(入れ墨)
腕や手の甲のシヌイェには、裁縫などの手芸が上手になるようにという祈りが込められていた。

白老・1967
マタンプシ(鉢巻き)を締めたフチ
貝澤トロシノ・フチ。老いの顔にキリッと締めたマタンプシにも、着衣の木綿衣にも、民族の伝統であるアイヌ文様が鮮明で、フチの存在感を強調していた。

長万部・1960
坊主頭に無精ひげの仲宗根梅祥氏

長万部・1960
冬の開拓地
広い畑地は雪原となり、遠い山並みを背に開拓農家女の子が佇んでいた。

壮瞥・1977
有珠山大爆発の降灰
有珠山大噴火の直後。洞爺湖に近いこのあたりは火山灰一色になってしまった。屋根の灰は下ろされていたが、車から男が走り出た。噴火のスざまじさにまだおびえていたのか。

壮瞥・1959
昭和新山「火祭り」
昭和新山の隆起は、世紀の地殻変動だった。地元ではこれを売り物にして「火祭り」のイベントが誕生する。闇夜、松明の列が蛍火のように山を登る。

白老・1959
往診に出かける高橋房次医師
コタンの聖医と謳われた高橋房次医師が、田舎医師然とした姿で、町はずれの旧コタンの道を往診に出かける。黒い風呂敷包みをかかえ、黒いソフト帽に着古した黒いコートがトレードマーク。
高橋医師は、一九二二(大正十一)年、当時の道立土人病院の初代院長として白老村に赴任。貧困に苦しむ人たちからは治療費を取らずに診療に当たり、吹雪の日も夜半も往診をいとわなかった。
病院が廃止された後も建物を引き継ぎコタンにとどまった。北海道文化賞を受賞した翌一九六〇年に七十八歳で他界。町葬では、炎天の下、千人もの人々が沿道を埋めた。私の取材したカメラ・ルポは、「コタンの老医師」の名で、カメラ誌や個展で発表した。

室蘭・1957
冬の夕景の旧室蘭駅舎
大正時代の建築様式を代表するものとして、現在も同じ場所に保存されている。

伊達・1961
有珠海岸海水浴場風景
城西の水着スタイルは、これが当時の流行だった。

伊達・1970
資材の荷揚げにシュプレヒコール
北海道電力・伊達火力発電所建設の反対闘争の一場面。資材を積んだ貨物船とそれを守る巡視艇にシュプレヒコールする有珠の漁民たち。
(※伊達火力発電所建設の反対闘争については142頁に解説)

伊達・1970
海上の攻防戦
漁民たちは、捨て身の闘争を果敢に試みた。この日、逮捕者二名と負傷者数名が出る。写真は、前頁の沖合を望遠でのぞいたもの。

伊達・1970
建設予定地付近を、反対派住民が歩く
反対派の住民たちは、資材を運ぶトラックの列に向かって気勢を上げていたが、すでに勝負はついてしまっていた。

伊達・1960
冬の海岸に流木を拾う黒い人影
当時石炭は配給制で、燃料不足は深刻だった。海岸から、打ち上げられる流木を拾う人影が走り去った。

長万部・1966
「ボク、とっても眠いんだ。そっとしといて!」
開拓地の坊やは、絵本も何も投げだして幸せそうに眠りこけていた。

伊達・1965
「ちょっと怖いな。うまく行くかな」
空き地に雪を積み上げたスロープで、少年が自信なさげに滑る。

長万部・1967
「ボクのうちにも、やっとテレビが来たよ」
待ちに待ったテレビ。画面に見入る開拓地の子どもは、置き物のように動かなかった。

伊達・1955
伊達高校、雪の校庭のフットボール
このあとサッカーの黄金時代がやってくる。

伊達・1959
流木を背負う女
「重いから値打ちがあるんだよ。わが家の大事な燃料だからね」。思わぬ収穫に相好を崩した。

伊達・1966
拗(す)ねている子
麦刈りに精を出している親たちに邪魔者あつかいされて。「あたいだって少しくらいは手伝えるのに…」

室蘭・1960
にわか雨の社宅街

札幌・1955
雪まつりの広場で
大通西三丁目に集まった群衆。彼らは一体何を見ていたのだろうか。

伊達・1960
砂と遊ぶ子

札幌・1955
雪まつり会場の群衆

豊浦・1956
「少し考えさせてください」

豊浦・1958
「ちょいと一服」

伊達・1957
「この時化ではどうもならんな」

長万部・1960
「それもそうですが」

苫小牧・1982
トーチカの残骸
勇払原野にあった太平洋戦争の落とし子。太平洋の荒波を子守唄に、日向ぼっこをしていた。

伊達・1979
噴火後の有珠山新火口原

弟子屈・1983
コタン・コロ・カムイ(集落の守り神)は雄々しく羽ばたいた
シマフクロウは動物神の最高位に置かれ、コタンの守護神として尊敬されており、その霊送りは、民族最高の祭儀とされている。しかしその実際は、幕末の絵師が描いたアイヌ絵から想像する他はなかった。
一九八三年十一月、徹辺(てしべ)フヨ(八十七歳)が十二歳のころに見たことがあるという記憶に基づいて、弟子屈町の屈斜路湖畔で、「シマフクロウのイヨマンテ」が挙行された。一般へは非公開。実に七十五年ぶりのことである。
これは弟子豊治氏らアイヌ側の実行委員会によって企画実行され、NHKが資金援助して全国に放映された。写真記録は、大阪府豊中市の西浦宏己氏と私の二人が担当した。

幌加内(ほろかない)・1984
湖底に沈んでいた数千の切り株が出現した
朱鞠内湖。シュマリ・ナイは、アイヌ語でキツネの棲む沢のことらしい。かつての鬱蒼たる大森林は、戦前に王子製紙によって伐採されパルプの原料となる。雨竜川をせき止めたこのダム湖は、日本一大きな人口湖だという。
修理工事のために水を落としたので、湖底にあった無数の根株が出現した。私は遠路もいとわず数回取材した。利用した国鉄深名線は、当時日本一赤字ローカル線。夕刻の汽車が遅れたため、真っ暗なトンネルを二つ、手探りで歩いてひどく苦労したこともあった。

浦河・1960
アイヌ民族の墓標
姉茶コタンで、風化するままの墓標が秋の陽にさらされていた。赤い布きれをつけたY字型の男性のものや、円い頭をつけた女性の棒状のものもあった。
墓前に置く欠けた斧は、死んだ女があの世に行って炊事に困らぬようにという配慮からだという。アイヌ民族にとって墓標もカムイ(神)であり、死者はそれによって先祖の国に送られた。

伊達・1965
左手だけでもなんでもやれるわ
以下128頁まで、「ポリオの爪痕」より。
(※ポリオについては142頁に解説)

伊達・1964
絵本を読む子

伊達・1966
ちょっと気取って