図書ゲキドウ ノ ショウワ オ イキヌイタ ヒトリ ノ オトコ ノ モノガタリ000047557

激動の昭和を生き抜いた一人の男の物語

サブタイトル1~10
編著者名
安藤 豊昭 著者
出版者
文芸社
出版年月
2005年(平成17年)5月
大きさ(縦×横)cm
20×
ページ
410p
ISBN
4835590287
NDC(分類)
289
請求記号
289/A47
保管場所
閉架一般
内容注記
和書
目次

序文
・私が貴方たちに残せるもの
・生いたちと家系
・私にとっての国と戦争について
 
第一章 幼年時代(誕生から小学校に入るまで)
私が生まれた新しい時代、昭和二年の夏の日本
父の設立したタクシー会社の役員は人力車組合の親方
新しき住まいは車庫と同居、車の助手席の由来は
私の首から下げた迷子札
どの場所から見ても睨んでいる
一刀両断、畳を裂く
頭痛持ちの祖母の解決法はお灸に限る
おむつまたはおしめがひらひら、お召列車が通る
〝ねえや〟我が家のお手伝いさん(トキヤのこと)
私の幼稚園は有楽町教会(現・銀座教会)
子供の虫歯の治療には歯を抜くに限る
冬に風邪を引かぬコツは夏にあり
我が家のクリスマスの日「クリスマスは苦しみますに非ず」(昭和七年頃)
東京音頭の元祖は「丸の内音頭」にあり
皇太子(明仁親王)誕生と天皇の神格化の始まり
寝小便と疳の虫の特効薬は、赤蛙とミミズの干物
父の信心―成田山新勝寺と川崎大師参り(母の実家を訪ねて)
子供は親の背中を見て育つ、躾の悪い子供は親のせい
 
第二章 少年時代(小学一年生から六年生まで)
ピッカピカ一年生の入学式(昭和九年四月)
昭和九年頃の子供の遊び(メンコ、ベー独楽(ごま)、ビー玉)
天皇陛下の行幸のお出迎えとお見送り
校舎の窓から垣間見る囚人の姿は子供のためならず
お紅茶とおケーキを頂くおぼっちゃまの世界
日本海海戦の英雄、東郷元帥の葬儀の行列
昭和九年の世相―陸軍が無視した天皇と陸軍を支持した国民
母の病(その一)母に精を付けさせようとした父の鰻の土瓶蒸し
母の病(その二)転地療法は大師河原の母の実家へ
母の病(その三)新しい転地先の熱海温泉と、とんだ嵐の大島旅行
私達には初めての田舎暮らしの母の転地先
転校による言葉、方言の違い―東京弁と横浜言葉
都会っ子も慣れればいっぱしの田舎っぺーのガキ大将(ホンチとは何か)
馬場町の田舎風景と遊び仲間
通学の子供を馬鹿にするイタチ
我が家の守り神―胴回り二〇センチ、長さ二メートルの青大将
お寺の和尚さん、殺生にメジロを捕る(昭和十年夏から秋へ)
母への想いでドジョウ釣りに出る
暑い夏も終わり万物全てが変わる秋が来た、あの青大将は
ミミズに立ち小便、あそこが腫れるか
母の死、それは突然のことであった
親の勝手と子供の気持ち―知らないおばさんが母となって
二度目の転校―横浜から東京日本橋に
私の経験した二・二六事件
昭和十一年頃の冬の子供達―アカギレ、しもやけは子供の勲章
子供は環境にすぐ慣れる
二・二六事件後、陸軍の野望は限りなく続く
思わぬプレゼントで夏休みが楽しみ
楽しかった夏休み―山梨県南都留郡谷村町(現在の都留市)
谷村での楽しかった生活について
本当にキツネの嫁入りはあるのか、私の見た真実は
楽しかった夏休みが終わったら、なぜか再び馬場町に戻る
巡ってきた季節の秋に母を想うけれど
鶴見区鶴見町に引っ越してミルクホールを開店する
新年の川崎大師参りは実家に寄らず
転校したクラスは男と女のマンメンジーの席
国道沿いのミルクホールの営業と戦争の足跡
戦争ごっこをする子供の名誉の負傷
私の好きな祖父の語った昔話
戦争に国がのめり込んで国民までも注ぎ込もうとしていた
夏の暑さを凌ぐ、身近な扇島海水浴場
鶴見川の氾濫と台風の被害―倒れかかった家を電信柱で支える
子供が映画館にタダで入る方法
昭和十三年頃の日本の医療事情
悪ガキの集合場所、駄菓子屋の実態
昭和十三年のスローガン「頑張りますよ勝つまでは」
父が生活苦の中で修学旅行に行かせてくれた
国は、物、人、材料不足のどん底でどうしたか
我が家のどん底生活から見たものは
昭和十四年から十五年の世情と国のあり方について
人、全てが戦争に向かわされていた時にそれに逆らった人がいた
我が家族満州に旅立ちの一大転機の三カ月
 
第三章 海軍飛行予科練時代(志願・入隊から復員まで)
自分がなぜ国を守らねばと考えたか、その発想と経過
新しい暮らしが仕送りなしでは、その打開策
昭和十六年十二月八日大東亜戦争始まる
満州から姉体調を崩し(肺結核の疑い)戻ってくる
昭和十七年四月十八日のドゥリットル大佐の目論み東京大空襲
日米戦の経過(昭和十七年)
戦時下の暮らしの実状と日本語の横書きは右書きを左書きとする
トイレットペーパーもなくなってゆく我が家の暮らし
昭和十八年、いよいよ決戦の大空に
予科練習生志願から入隊まで
四国松山海軍航空隊入隊の現状
昭和十八年十月一日、松山海軍航空隊入隊式
本格的予科練習生の隊内生活のプロフィール
予科練習生時代の日程について
予科練時代の四方山話
飛行機の操縦管を握れるか握れないかが運命の別れ道
伝統の海軍独特の海軍精神注入棒(通称バッター)について
隊内でコックリさんの占い大流行り、果たして当たったか
我々の転勤する前の休暇について
第十三期飛行予科練習生を卒業し、飛行練習生となるために台湾へ
神戸港から基隆(キールン)へ
いよいよ第三十八期飛行術練習生として
台湾基隆港上陸から台中市での一夜まで
虎尾海軍航空隊台中分遣隊に入隊、即日訓練開始される
飛行訓練開始、初めて飛行機に乗る
飛行訓練は先ず離着陸から始まる
私が単独飛行を許される日
台湾で初めての父からの手紙
忘れ去った記憶(みやぎ会私の投稿文より、飛練時代のエピソード)
後竜(こうりゅう)基地での思い出
航空隊の基地における日常の実態について
諫早(いさはや)航空隊に転勤となる
「その船、引き返せ」の電報を洋上で受ける
内地帰還の船内で感染したアメーバー赤痢と発疹チフスはシラミのおかげ
砂糖事件が演芸大会に変わり、全国の練習航空隊は解隊となる
諫早に残った十一名が特攻隊員となり、二人が長崎原爆投下を目撃する
諫早空から霞ヶ浦空まで行く三日間の出来事について
霞ヶ浦分遣隊に到着後、私は中間練習機で特攻隊に編入される
〝捷〟二号作戦発令され、いよいよ中練特攻出撃決まる
特別攻撃隊を見送る指揮官のあり方
幻の中間練習機特別攻撃隊出撃す
敵艦載機の跳梁とB29の猛爆撃の惨状を書く
この国の運命と私の将来の占い
特別攻撃隊の解散と中間練習機(特攻機)の疎開
霞ヶ浦基地より千歳航空隊に転勤を命じられる
霞ヶ浦から千歳海軍航空隊に転勤中に終戦を迎える
復員―千歳空から横浜上大岡の自宅までの道程