昭和の空白を読み解く
まえがきにかえて
第1章 戦争が残した禍根
朝枝繁春 「スターリンは、わたしには命の恩人となるかもしれない」
アレクサンドル・フェクリソフ 「原水爆開発に携わっている科学者が協力者になった。この男と常時連絡を続けろ、と」
王鳳年 「名前を名のることは許されず、私もただ七六という番号で呼ばれていました」
大友源太郎 「生きるためにはなんでも、蛆虫だって火で焼いて食べたんですから……」
蒋緯国 「中日は友好的であるべきなのに、日本は中国領土を国防の安全地帯にしようとした」
山本洋一 「広島から長崎の原爆投下まで約三日、その間、科学者は何をやっていたのか」
古山高麗雄 「いいお父さんで尊敬される人格者でも、戦地では何をやっているかわからない」
第2章 志に生きた人びと
伊藤義彦 「小さな組織だって維持するのは大変。一途に進むというのが僕は好きなんだ」
乙戸昇 「インドネシア独立と同時に、この地で人生を再スタートさせようと考えた」
加藤進 「陛下のお心のこりは、沖縄に行っていらっしゃらないことのはずです」
小沢一郎 「政党も政治家も、本物の政治を通じて国民の判断を仰ぐべきだと強く言いたい」
渡辺美智雄 「売り上げの七十二%が必要経費と認めるのなら、差額二十%こそ国家公認の脱税では」
塙三郎 「事件を起こして、私は私なりに自分の行動の意味に正当性を感じるようになった」
加瀬俊一 「東京裁判で明らかになったように、日本大使館員の怠慢だったということですよ」
第3章 未来を見通す鋭い眼
大原謙一郎 「孫三郎という人物は、企業経営者と個人の道楽をはっきり分けていた」
杉田一次 「イギリス軍将校は、最終的にわれわれが勝つと言ったが、私も内心そう思っていた」
中山素平 「課長になったら課長の、部長になったら部長の、できる改革をやって行こう」
孫治平 「祖父はまだ五、六歳の私に、男子はひとたび志を立てたら、それを貫かなければと言った」
陳立夫 「中日が協力すればアジアを指導し、アジアの文化を歴史的に発揚することができた」
宮崎晃 「アナーキズム運動は都市ばかり見ている。だから農村にユートピアをつくろう」
第4章 昭和史の証言者たち
アレクセイ・アレクセーヴィチ・キリチェンコ 「日本にはソ連への軍事的進出計画があった。さらには細菌兵器による攻撃も」
熊沢乃武夫 「結婚式は菊の十六弁付きの紋付を着ましたが、誰も一言も文句は言わなかった」
ゲオルギー・ゲオルゲェヴィッチ・ペルミャーコフ 「満州国皇帝溥儀さんが東京裁判に出廷しました。その通訳が私です」
森田利八 「殿下は、安藤が過激な連中にまきこまれなければいいんだが、と……」
鈴木一 「鈴木、ご苦労であったと言われたんだよ、と父は私に涙声で言うのです」
広橋真光 「あの時代には、東条さんのような人物が必要だった」
〈特別編〉社会主義崩壊直後のモスクワ市民たち
あとがき