戦争のグラフィズム
序章 一九四一年秋
“棚ボタ就職”でデザインの世界に入る
理事長は映画俳優
スタッフは自由主義者と共産党員
1 ふたつの大戦の狭間で
新興芸術運動と最初の写真ブーム
大正リベラリズムから激動の昭和へ
太田英茂のもとで―原弘と木村伊兵衛の出会い
『光画』をめぐる人びと
日本工房の誕生そして分裂
中央工房と国際報道写真協会の設立
2 それは対ソ宣伝計画から始まった
陸軍参謀本部の対ソ宣伝謀略構想
ソ連から帰国の勝野金政、参謀本部嘱託に
岡田桑三、東方社設立に動く
東方社の誕生と幹部の人びと
月刊写真画報『東亜建設』の発行計画
3 日米開戦前夜、写真取材始まる
バスに乗り遅れるな―戦時体制下の宣伝技術者たち
誌名を『FRONT』に変更
海軍大演習の写真取材と小川寅次
旧館屋根裏の資料室で
4 スタートした戦時国家宣伝
緒戦の戦果に合わせ、「海軍号」が創刊号に
特需扱いで資材を確保
『FRONT』の全容
つかの間の勝利感に酔う
“東方社はアカの巣窟だ”
5 連合国に届いていた『FRONT』
十五ヵ国語に翻訳された「海軍号」と「陸軍号」
戦車学校の取材と合成写真
『FRONT』は潜水艦で運ばれた?
「落下傘号」と原弘のレイアウト
海外取材始まる―「満州国建設号」
6 内外の危機に揺れる東方社
“VICTORY”と「風と共に去りぬ」の衝撃
淡路事務所と駿河台分室
カメラは無事か―浜谷辞職と動揺する写真部
岡田理事長辞任―建川中将を総裁に
太田英茂、東方社再建に腕をふるう
7 軽量宣伝物『戦線』と、つくられた写真
『戦線』のモンタージュ写真
謀略写真の顛末―空中戦はいかにつくられたか
太田英茂、東方社を去る
8 戦局悪化のなかの外地取材
華僑向け宣伝物のための占領地取材
空襲必至―野々宮ビルに移転
最後の外地撮影に出発
サイパンが陥落したら日本は負けだ
かぎ回る特高刑事
9 空襲で次第に機能を失う東方社
軍事色の消えた『FRONT』
軽量宣伝物に重点を移す
空襲・“闇”・疎開で仕事手つかず
野々宮ビル炎上―「東方社万歳!」
社屋は残ったが資材を大量焼失
10 東方社最後の日々
参謀本部の縮小と林理事長
自分の命は自分で守る
米軍が上陸したら上海に逃げよう
東方社解散―本土決戦態勢へ
原爆投下とソ連の参戦―日記から
終章 一九四五年秋
敗戦―『FRONT』の印刷工場を探す進駐軍
広島・長崎の被爆記録に取り組む
『FRONT』が戦後に残したもの
悲劇、東方社『FRONT』の歴史
補論 『FRONT』、その制作現場
参考文献・資料・記事一覧あり