図書アサヒ シンブン グラビア ショウシ000034942

朝日新聞グラビア小史

サブタイトル1~10
出版印刷部40年の記録
編著者名
朝日新聞社 著者
出版者
朝日新聞社
出版年月
1962年(昭和37年)9月
大きさ(縦×横)cm
21×
ページ
227p 図版16p
ISBN
NDC(分類)
070
請求記号
070/A82
保管場所
閉架一般
内容注記
和書
目次

序にかえて(村山長挙)
グラビアとの惜別

写真
◆村山龍平 上野理一 朝日会館とグラビア工場
◆社長 村山長挙 取締役社長 上野精一
金色刷りの朝日新聞
◆グラビア創始と関係文書◇人物─小西勝一
辰井梅吉 高原操
◆高性能を発揮したグラビア印刷機◇人物─小西作太郎
◆グラビア製版室◇ポジの張り込み作業◇
多色刷輪転機のインキ装置
◆出版印刷部のデスク◇製版課写真室
◆版胴腐食室◇エングラ研磨機で版銅のペーパー仕上げ磨き作業
◇クロームメッキを終った版銅◇版胴腐食作業◇版銅へ
カーボンチッシュ転写作業◇版銅格納倉庫
◆辻本機を据付けた中之島旧社屋の元印刷工場◇ドイツの
製作工場で試運転するケーニヒ機◇写真植字室◇人物─
辻本秀五郎 技師ゲルマン
◆製本室◇製本の丁合わせ作業◇表面温度計と測深顕微鏡
◆グラビア印刷創始初期の定期刊行物
◆歴代の出版印刷部長◇地文様─初めての多色刷グラビア印刷による
新年付録
◆25周年記念「グラビア祭」
◆最期の作業を終って乾杯◇グラビア人の青春時代
◆出版印刷部の解散式◇愛機に別れを惜しむ出版印刷部の人たち
◇サアみんな元気で・・解散式の日の出版印刷部員

グラビア輪転印刷機の大シリンダー静かに停止

アッと驚かす歴史的なグラビア印刷の第一歩
大正十年一月二日
天才辻本の血のにじむ研究
「国華」のコロタイプ版を製作
霧の中で物をさぐる思い
国産機製作を村山翁が激励

ドイツのグラビア印刷機に鳥居素川が着目
大正二、三年のころ
グラビアの採用進めた辻
御大典の報道に使いたい
ドイツから機械購入を建議
購入の建議には二つの理由
機械購入の交渉をはじめる
第一次世界大戦で“ご破算”

グラビアはこっちが先手、出し抜かれたらあかん
大正九年の秋ごろ
辻本のグラビア版を採用
国産初のグラビア輪転印刷機
第一面を飾る豪華な大社告
グラビア版の解説記事掲載
素人写真家へ呼び掛ける
読者から、よろこびの投書
辻本の苦心談も新聞紙上に
テンヤワンヤの辻本工場

お正月らしい「朝日グラヒック」第一号を刊行
大正十年一月二日
美人も新聞も共に好評
業界紙も注目して批評
宇田川の苦心と裏ばなし
毎日新聞よりも1歩を先行

工場移転と市田オフセット、彩色新聞広告が登場
大正十年一月二十三日社告

グラビア輪転印刷開拓者、辻本機の役割おわる
大正十一年二月
辻本らは東京へひき上げる

グラビア印刷機械に外国製の買入れを決意
大正十年の中ごろ
まずアメリカの機械を交渉
ドイツの機械へ方向を転換
村山前社長の熟慮と果断
「一挙両得」の小西作太郎
能率の良い胴の太い機械
新工場にロトグラビア印刷機
組立てにゲルマン技師来日
役立つ辻本いらいの研究・経験

新機械の処女印刷は「朝日グラヒック」第百八号
大正十二年三月十一日
市田のオフセットともお別れ
毎日新聞社にも種々の計画
二瓶氏の秘密渡米わかる

週刊誌続出し、グラビア刷り「朝日スポーツ」創刊
大正十二年三月十五日
全文を横組みにした新構想
運動部と製版部が独立する
新鮮味のあふれた創刊号
「極東大会」で真価を発揮
スポーツ専門誌の発案者
珍談・水で消えた印刷
読者サービスに張切る販売陣

関東大震災目覚しいグラビア印刷機の活躍
大正十二年九月一日
皇太子殿下のご婚儀を報道
定期ものの外にも続々発刊
さらにグラビア印刷機を発注

社運の飛躍的発展の年「出版編集部」新設
大正十四年一月二十二日
新鋭機は二色刷りができる
「アサヒカメラ」を創刊
グラビア製版科の移転
製版部は百名もいる大世帯

施設の整備をおわって昭和の新活動期に直面
昭和のはじめごろ
「グラビュア科」に表札がえ
皇室関係の印刷もので業績
アイリス機の四色刷り実現
予期に反したアイリス印刷機

緊縮と円本に押されてもふえるグラビア作業量
昭和四年ごろ
創刊五十周年記念の諸活動
近畿地方御旅行を迎えて
「アサヒグラフ」に関西版

グラビア製版の研究が生んだ発明の二つを表彰
昭和五年の五月と七月
波々伯部方次の発明した技術
宇野先太郎の新技術
越島が水インキに新製法
アイリス機いちおう成功
グラビア二色刷り実を結ぶ
国産機を加え六台の陣容

満州、上海両事変につれグラビアの黄金時代出現
昭和六、七、八、九年ごろ
新しい刊行物が二つ誕生

十周年を迎えグラビア印刷技術は世界的水準へ
昭和八年三月
印刷局規定が改正される

故村山社長へ捧げる悲しみの作業「追悼号」
昭和八年の終りに近く
「製版部」が「出版印刷部」に
越島が新出版印刷部長に
グラフ部は出版編集部に
「日曜フォート」の出現
飯銅にクローム鍍金方を採用

伸びる社勢とともにグラビア界で指導的地位
昭和十一年から十五年
誇るグラビア印刷の二名目
「神風」をグラフで称える
「大朝」の紙齡は二万号
日華事変と取組んだグラビア
売れて、いそがしい出版
製版係と飯銅係を一体化

社員からも応召や戦死、統制進み出版局新設
昭和十三年ごろ
辰井の説く戦時体制対策
「朝日」をささえる四巨柱
新設局に応じ関係部整備
出版印刷部に「凸版課」
グラビア輪転機を改良

皇紀二千六百年を祝い社の内外は新体制一色
会長、社長ら役員に変動
編集総長制と四本社制
相談役小西勝一逝く

踏入った“戦時”グラビアもいちおう大休止
昭和十五年から二十年
次第に姿消すグラビアもの
まずスポーツとカメラ関係
困難乗越す技術の二成果
出版印刷部が縮小される
軍の委嘱で南方諸新聞経営

夕刊発行も休止し、九州地区には爆撃機来襲
昭和十九年三月と六月
出版印刷部などの戦時体制

金属回収の難関を突破、オフセット印刷機を獲得
昭和十八年から十九年

資材も人手も不足した戦時中のグラビア回顧
カーボンティッシュになやむ
廃液という名の貴重薬品
ボロ布で自家製バンソコウ
水性インキに泣かされる

終戦迎えた新路線上に生気取返した出版印刷部
昭和二十年のころ
オフセット係を新設
オフセット印刷課に昇格
辛くも切抜ける資材難
みじめ“敗戦国”の元日号
グラビア一筋に二十五年

苦心談やら楽屋ばなしに回顧座談会は盛会
昭和二十二年二月五日
「グラビア祭」に歓をつくす
出版印刷部長などわかる
印刷界の天才児辻本の他界
「朝日スポーツ」復刊
印刷局首脳陣に変動
大先達越島善次が死亡
グラビア二色刷りを始める
グラビア枚葉機を入替え

窮乏生活にゆとり、朝日新聞社も資本金増額
昭和二十四年十二月二十四日
努力の結晶、四色刷りが成功
写真植字機を新設する
用紙の統制が解除される
ボツボツ臨時物を刊行
朝日新聞の新役員を決定
ゆかり深い三人が死去

講和条約発効して新しい力が盛上がる朝日新聞
昭和二十七年四月二十八日

グラビア印刷の最高峰天然色刷りに到達
昭和二十七年十一月末
新鋭輪転機は六単位の構成
新年付録が処女印刷
東京本社出版印刷部の消長
「オフセット印刷課」廃止
「映画と演劇」を復刊
原爆特集で発行部数新記録

新年号は戦前の姿に、付録は多色刷りグラビア
昭和二十八年一月一日
油絵の格調持つ付録
新鋭機を公開運転する
出版印刷部長かわる

豪華な新年特集や創刊七十五周年祝う金色刷り
昭和二十九年一月
奄美大島を多色グラビアで
金色に輝く富岳の雄姿
金色刷り新聞印刷の苦心
全社員の写真帖も印刷
功労者の一人柴一雄逝く
「家庭朝日」を廃める

販売界の浄化目指しグラビア戦力をタナ上げ
昭和三十年
協定守れず「特殊指定」へ
作業改善提案に年度賞
吉村印刷局長が海外視察
「アサヒスポーツ」を廃刊

多色の両面刷りと「網点グラビア法」実施
昭和三十一年
製本課廃止と版胴係新設
製本部門の歩いた道
彫刻場が写真科に転進
製本作業は足踏み機械で
機構改変と人事の異動
時間かかるグラフの色刷り
オザリッド高速複写機新設

新聞界に衝撃与えたファクシミリ方式の刊行
昭和三十四年六月
スイス製の版胴研磨機など設置

週刊誌ブームの出現で定期ものに大きな変化
昭和三十三、四年ごろ
「朝日ジャーナル」誕生

ファクシミリ・オフセット紙発行で人事異動
昭和三十四、五年ごろ


グラビア印刷を廃止、四十二年の歴史に終止符
昭和三十六年十月
出版印刷部廃止を社報で告知
九月二十八日に最期の作業
部の最終総人員は九十一人
工場施設の機械器具類
部員の配置転換に尽くす誠意
諸先輩も列席して解散式
配転者はそれぞれ新職場へ
諸機械も第二のスタートへ
ああケーニヒ機と送った生涯

グラビアの先輩(小西作太郎)
大震災画報に活躍(波々伯部万次)
あとがき