東洋インキ80年史
- サブタイトル
- 編著者名
- 東洋インキ製造 編者
- 出版者
- 東洋インキ製造
- 出版年月
- 1988年(昭和63年)1月
- 大きさ(縦×横)cm
- 27×
- ページ
- 640p
- ISBN
- NDC(分類)
- 576
- 請求記号
- 576/To85
- 保管場所
- 閉架一般
- 内容注記
- 引用文献・参考文献:p633~635
- 昭和館デジタルアーカイブ
ごあいさつ(取締役社長・永島陸郎)
第一部 通史
当社創立までー東洋インキの夜明け前
創業
横田源太郎とのコンビ
明治40年
東洋インキ誕生
顔料アルミナホワイトの製造
明治41年
関西市場への着目
宣伝活動の推進
明治42年
関西市場の対応を強化
明治43年
伏見専売局への足掛かり
定款変更、ペイントの製造に着手
専売局とインキ納入初契約
明治44年
羽獅子マークを譲り受け
明治45年(大正元年)
英国製ガス動力の導入
大正2年
古武士商標の出願
大正3年
博覧会にインキを出品
大戦により材料入手困難
工業調査会設置
大正4年
インキ業界30%の値上げ
大戦の影響克服
大正5年
職工使用規定を制定
大正6年
創立10周年、自製化研究進む
大正7年
電動機設置、設備の拡大
柏木に工場新設
製版新技術と青戸工場敷地購入
大正8年
富久町工場大改築
大正9年
小柴英侍社長就任
赤色有機顔料の製造
クイックドライヤー製造
大正10年
グラビア印刷の幕開け
富久町工場の火災と復興
大正11年
小柴社長急逝
大正12年
印刷インキ材料同業組合
大震災で本社、倉庫焼失
印刷局焼失と当社の協力
荷車からトラック輸送に
大正13年
日本印刷材料株式会社とのかかわり
資本金60万円に
大正14年
色刷り出版物と営業品目
大正15年(昭和元年)
上海、大阪に出張所開設
当時の特許取得と技術内容
昭和2年
契約書の整備
当時の会社概要
昭和3年
退職への備え
昭和4年
関西での拡販とグラビアインキ発売
昭和不況へ突入
昭和5年
金輸出征策転々、不況深刻化
未曾有の就職難続く
昭和6年
業績、過去最悪に
広報誌「トーヨー」発行
昭和7年
一貫製造の理念と平和への願い
小林鎌太郎、皇族から表彰状親授
食品包装用インキなど新製品開発
昭和8年
販売網と販売品目
富久町工場の移転決定
昭和9年
身元保証金積立制
小林鎌太郎社長就任、創立28年目
レーキレッドC製造開始
昭和10年
PR誌「トーヨー」にみる資料
原料確保に苦慮
広島出張所開設
昭和11年
京城出張所開設
青戸工場建設開始、カーミン6B製造
昭和12年
創立30周年、青戸工場一部創業開始
名古屋出張所開設・フタロシアニンブルー製造開始
昭和13年
小林鎌太郎社長死去
新設青戸工場の建物・設備
東洋自動車運輸㈱設立
昭和14年
社則制定と奉天・台湾出張所開設
代用紙器缶採用と西川求林堂救済
昭和化学研究所
原料不足で印刷・インキ業界苦境に
昭和15年
時局が品種統合を促進・新勤務体制成る
新会社マーク制定とイメージアップ作戦
横田源太郎去る
昭和16年
川村社長辞任、太平洋戦争勃発
昭和17年
中国南方へのインキ供給
戦時統制強化、昭和紙器の譲渡
昭和18年
富士分工場設置
昭和19年
業界の統合整備
戦時対応製品の生産で徴用止む
昭和20年
本社、空襲で焼失・太平洋戦争終結
復興への第一歩
昭和21年
原材料入手に苦闘
労働組合結成・初代は永島組合長
関西進出・大阪支店設立
昭和22年
戦後の統制・制限立法で混乱
戦後技術の第一歩
暗いちまたに一灯・演劇界
昭和23年
占領生産設備増強
従業員給与改定、規約の整備
印刷インキ試験規格の検討開始
昭和24年
安定恐慌の中で、業績急伸
海外技術導入の端緒、体制整備進む
昭和25年
授権資本制と資産再評価
インキ・グラビア量産化の準備
本社、青戸工場、大阪支店の体制
昭和26年
インターケミカル社と技術提携
当社相談役井上源之丞逝去、山田三郎太社長就任
昭和27年
樹脂型インキ誕生
「インキ試験方法」の検索進行
グラビアインキの拡充
樹脂型インキ設定
昭和28年
十条にグラビアインキ工場建設
当社独自の技術開発
昭和29年
グラビア工場操業開始
アリダイへの参入
フィニッシェス技術を導入
昭和三十年
カラー印刷物急増で好業績
グラビア工場名、「十条工場」に
昭和31年
米国新技術導入と工場環境の整備
資本金1億円となる、トーヨーインキニュース復刊
昭和32年
創立50周年、スピードキング登場
接着剤技術検討開始・インキ無鉛化実施
昭和33年
フィニッシェス量産体制へ
昭和34年
技術導入本格化、川越工場完成
昭和35年
本社社屋完成、地方進出始まる
昭和36年
地方発売網整う
内部管理体制強化、株式二部上場
昭和37年
高度成長の停滞
吹田、川越工場活動本格化、富士工場建設に入る
昭和38年
山田三郎太会長、永島豊次郎社長に就任
キャラバン販売開始
昭和39年
オリンピック開催、当社地方進出の波
合理化委員会発足などの社内合理化推進
システム改善着手
昭和41年
会社モットー制定
経営情報システム構築開始
昭和42年
創業60周年・一部上場・山田会長逝去
ワックス生産本格化、インターケミカル社と技術契約更新
昭和43年
EDP化着手、「自ら新しい重荷を負え」
青戸工場新築成る
昭和44年
PETY事業部発足
米インモント社とハワイ会談開催
昭和45年
公害防止対策実施
昭和46年
関連会社の設立相次ぐ
昭和47年
ぺディ株式会社設立
昭和48年
第一次石油ショック
公害問題への取り組み
昭和49年
物不足と狂乱物価
IGAS´74TOKYOと新事業への取り組み
昭和50年
製品別販売部体制の取り入れ
不況により入社式延期
ヨーロッパに現地法人会社設立
昭和51年
東洋インキアメリカ㈱設立
公害処理施設の拡充
昭和52年
創立70周年
技術開発の受賞相次ぐ
会計事務の一元化と新聞印刷新技術
昭和53年
中期経営計画指針
東洋インキ共催会発足
QCサークル活動導入
販売体制強化、機構改革
昭和54年
情報機器ショールーム開設
新モットー制定
人事委員会発足
昭和55年
新中期経営計画策定
安全衛生、環境面を充実
マーケティング活動に注力
昭和56年
低成長打開策と澤村取締役の逝去
業態を大幅に改革
レスポンス300システムを公開
昭和57年
研修生宿泊設備整備
長期経営計画「計画80」策定
CCMシステムと社内相談制度
昭和58年
会長永島豊次郎、社長永島陸郎就任
新聞インキ、接着テープ、電子材料事業の前進
昭和59年
海外戦略新展開
事業部制新発足とイノベーション
昭和60年
未来を求め新規事業へ
新ビジョンi&i
昭和61年
着色剤・米国へ進出、筑波研究所着工
内部革新と事業構造転換へ
昭和62年
創立80周年
第2部 部門史
顔料事業
インキ事業
新聞インキ事業
グラビア事業
塗料・樹脂事業
着色剤事業
接着剤事業
電子材料事業
接着テープ事業
印刷材料・機械・機器事業
その他の活動
業績の推移
第3部 資料
当社創立と定款
社標・商標
株式および資本金の推移
資産の推移
歴代役員任期一覧
役員・従業員数の変遷
従業員に関する諸制度
営業種目の変遷
事業所一覧
関係会社一覧
第4部 用語辞典・色名
用語辞典
色名
引用文献・参考文献
編集後記
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