太平洋戦争外交史
第一章 満州事変(一九三一年)
国際連盟の審議と成果
アメリカの態度
イギリスの態度
ソ連の態度
第二章 米国新政権と日米関係
ハル外交の登場(一九三三年)
天羽声明(一九三四年)
広田・斎藤外交(一九三四年)
海軍問題
ロンドン海軍会議(一九三六年)
第三章 嵐の前の四年間
北支、内蒙工作
広田三原則(一九三六年)
日支交渉の失敗(一九三六年)
西安事件(一九三六年)
第四章 日独防共協定(一九三六年)
第五章 支那事変(一九三七年)
開戦責任論
アメリカの周旋
国際連盟の決議
ブラッセルス会議
第六章 日支戦争の波紋(一九三七-三八年)
近衛首相の苦衷
ソ支不侵略条約(一九三七年)
大統領の隔離演説
パナイ号事件
ドイツの平和斡旋
国民政府を対手にせず(一九三八年)
アメリカの国防強化
フランスの態度
第七章 東亜の新秩序声明(一九三八年)
連盟との完全絶縁(一一月二日)
日支戦争一周年記念(七月七日)
東亜の新秩序声明(一一月三日)
近衛声明(一二月二二日)
第八章 日米通商条約の廃棄(一九三九年七月)
平沼内閣の対米工作
天津租界事件
通商条約の廃棄通告
第九章 第二次世界大戦と極東(一九三九年)
独ソ不侵略条約(八月二三日)
満ソ、満蒙国境紛争
在支外国軍隊の撤退要求(一九三九年)
中立法の改正(一九三九年)
グルー大使の演説(一九三九年一〇月)
通商条約廃棄の後始末
汪兆銘政権(一九四〇年三月)
アメリカの国防計画(一九四〇年)
第一〇章 日蘭交渉(一九四〇-四一年)
第一一章 対日経済制裁(一九三九-四一年)
第一三章 松岡外相の訪欧(一九四一年)
モロトフのベルリン訪問(一九四〇年一一月)
松岡のベルリン訪問(一九四一年三月)
日ソ中立条約
第一四章 日米交渉(一九四一年)
ハル長官の声明(一月一五日)
日米諒解案(四月九日)
五月一二日の日本案
六月二一日のアメリカ案
独ソ開戦と御前会議(七月二日)
第一五章 南部仏領インド進駐(一九四一年)
北部仏領インド進駐(一九四〇年九月二二日)
タイ・仏印国境紛争(一九四一年三月)
南部仏領インド進駐(七月二四日)
第一六章 近衛・ローズベルト会見流産
チャーチル・ローズベルト会談
近衛・ローズベルト会見流産
戦争決意の御前会議(九月六日)
九月六日の日本案
近衛内閣崩壊
第一七章 日本の最終提案(一九四一年一一月)
東条内閣の成立(一〇月一八日)
御前会議(一一月五日)
甲案の提出(一一月一〇日)
乙案の提出(一一月二〇日)
第一八章 アメリカの最終案決定
ハル・ノート成立過程
ハル・ノート提出(一一月二六日)
第一九章 日本の開戦決定
御前会議(一二月一日)
大統領覚書(一二月二日)
天皇陛下への大統領メッセージ
開戦(一二月八日)
第二〇章 ソ連と中立条約
戦時外交とソ連
松岡外相時代
豊田外相時代
東郷、重光外相時代
ヤルタ協定と中立条約
第二一章 日本の戦後処分
カイロ会議(一九四三年)
テヘラン会議(一九四三年)
ヤルタ会議(一九四五年)
ポツダム会議(一九四五年)
第二二章 終戦始末(一九四五年)
平和工作
ソ連の対日宣戦
降伏の条件
付録・索引