日本捕虜志 下
- サブタイトル
- 編著者名
- 長谷川 伸 著者
- 出版者
- 時事通信社
- 出版年月
- 1962年(昭和37年)4月
- 大きさ(縦×横)cm
- 19×
- ページ
- 252p
- ISBN
- NDC(分類)
- 210.1
- 請求記号
- 210.1/H36/2
- 保管場所
- 閉架一般
- 内容注記
- 昭和館デジタルアーカイブ
本篇の3 仁川沖と蔚山沖の海戦と日本海々戦の捕虜と、旅順閉塞戦の旅順捕虜
ロシア側従軍記者曰く傷兵慰撫の為戦闘中止の例なし
上村彦之丞提督に悪態冷笑揶揄の手紙二千余通
蒋山沖海戦に敵六百余名を溺死から救う
上村長官信号を発せしむ「捕虜を好遇せよ」
沈める敵艦の将校救われたる小鳥に再会す
仁川沖海戦の敵負傷者を日本女性が看護
旅順閉塞第三回の八隻百五十八名と捕虜となりし数名
白玉山西麓に埋葬されていた日本海陸の将兵
ステーヤの『ノーヴィック』にある旅順の捕虜第一号
旅順監獄中の日本捕虜と病院の捕虜
捕虜となる決心をつけた斎藤大尉と正木大尉
九回にわたる日本海々戦の捕虜は六千百六名
第四回海戦でネボガトフ提督、部下三千の為に降伏
ボロジノ乗組員九百のうち救助されたのはただ一人
レベノフ大佐以下の欝陵島に捕虜となりし時の待遇
山口県見島に上陸の捕虜五十五名に村民の救護
島根県に投降の二百四十七名と二十一名の扱いと賄い料
死せる捕虜の水葬に武士が武士にする手向け
捕虜の水兵の接吻を啖いつくと思った日本水兵
捕虜のロジェントウスキー提督を登舷礼で迎う
佐世保で入院の海軍捕虜三食の献立とロシヤ料理
東郷平八郎提督のロ提督訪問と山本権兵衛の花束
敵死体を葬った島根県十六島民の年々回向
扱い難き戦傷の日本人とその反対のロシヤ人
本篇の4 戦場の捕虜と、日本内地二十九収容所の捕虜と、日本人惨苦の捕虜生活
中尉と兵二名が敵に分捕の隊旗を返してやる
陸軍版の『忠勇美談』に敵を褒めた記事あり
クロパトキン将軍捕虜一名を得て敗因をつくる
捕虜以前なら殴りもする捕虜では殴らせない
敵の重傷を新戦場で手当した軍医を喜ぶ
日本兵の高等知識にロシヤ驚き独逸も驚く
ミスチェンコ将軍捕虜の将校に感状を与えて帰らす
敵中佐外二名を捕虜とした参謀と兵と乃木将軍
ロシヤの将軍にロシヤ聯隊の所在を教えてやった捕虜
ロシヤ軍が積残しの捕虜居ながら日本軍に戻る
佐渡丸常陸丸金州丸から敵手に落ちた日本人
歯獲した敵の野戦病院の老軍医と看護婦
マカラの『コサックと共に』にある奉天会戦後の捕虜
降伏の負傷兵に水をやり煙草をやりコツンもやる
捕虜の曹長の書置を持っていた捕虜の軍医
三十年後にわかった日本将校下士と一満人の墓
ハルピン予備病院の日本人捕虜の墓標は変名
捕虜日本人は一千六百二十九名(外に民間人八二七名)
出来ない中から優待した内地収容の捕虜
逃亡暴行窃盗の捕虜刑罰は平和克復で消滅
愛媛県高浜町民が捕虜に寄せた好意と贈物
捕虜はホテルに食事し温泉に浴し恋もした
セメヨノフ中佐曰く我は日本で罪人同様に扱われた
宇品の大佐はサムライ輸送監督の大佐はそうでない
捕虜将校の食費一日六十銭下士卒二十三銭
カミシローフ市の日本人捕虜は一日六銭後に無給与
収容中に帰国したネボガトフ提督とロ提督
独逸と日本の捕虜待遇は余りに違うと語る元捕虜
京都の捕虜向きの倶楽部と静岡遊女の捕虜拒否
松山へ稲佐から来て捕虜の相談相手となった女
不幸なる敵と愛憐の慰問と駅々の茶菓接待
捕虜の靴もひどいが応召兵の靴は更にひどい
軍医総督も衛兵も同種の外套で食事も同じ
送還途中脱走し日本に永住した技術者捕虜
名古屋収容の捕虜将官は一日五円づつの洋食
朝野の捕虜優遇を憤慨した兵站将校等
一九〇四年ウラル山中に地獄生活の民間日本人
居留日本人を捕虜とする(ハバロフスク)
四日三晩連続で日本人を残虐護送(カンチカ)
地獄護送とそれ程でもない護送
泥の中を泳がされた二十二名(ニコリスク)
チタ監獄で主なる所持品が行衛不明
イルクーツスク窮苦の二十一名と一朝鮮人の義侠
トムスクの食庫収容中に姿を消した女
始めて一日十五銭の食費渡さる(トウゴロ村等)
浦塩の僧太田覚眠捕縛さる(ブラゴヱ)
ブラゴヱの日本人二百三十九人が決死の退去
チチハル街道墨力根の浦川とめと病女
引揚団一変して捕虜にされる(チチハル)
囚人に救われた日本人と酌婦と中国人の妻
夫から引放された日本の女残虐を加えられる
死の捕虜船へ僧侶と老婦人の贈物(チユメン)
金子りき日本帰国の途中捕わる(ハルピン)
函館の第三加悦丸の六十三名捕虜にされる
樺太長官夫妻その他の好意と悪意の者達
食事を与えず八日間責苦の護送(ラズドリノヱ)
六十五日の拘禁と非道な扱い(ニコライフスク)
ウラル山中八カ所に民間日本人捕虜約一千
八カ所の官吏等が捕虜の食費その他を横領
知事の命令書中に「黄色の皮をかぶる動物」
波蘭人工場に日本人百四十八名雇わる
三角次郎等(ペルミ)堺誠太郎等(カミシローフ)の決意
露都のアメリカ大使救助の使者を送る
民間人捕虜八百二十七名アメリカに救わる
独逸人ネスラーその他の義侠によりブレーメン出発
一九〇四年十二月六日夕日本長崎に帰る
後篇 国内国外の捕虜拾遺
アメリカ版『武士道』(新渡戸稲造)と日露戦役
和蘭人の語る明治三度の外戦と日本軍
ロシヤ将兵の英霊碑を日本が建つ(明治四十年)
日本将兵の表忠碑はその後に建つ(明治四十二年)
ロシヤ人曰く敵の弔魂碑を建てた例は世界になし
三面包囲の望楼に敵味方回向の位牌(昭和十二年)
日笠有三場鎮に敵の供養塔を建つ(昭和十二年)
『太平洋戦争』(バイウオタウ)にある日本人の義侠
奪れた勲章を捕虜に取戻してやる(明治三十八年)
松井石根の師団長今昔比較談(昭和二十四年)
伯林大学長の日本独逸の捕虜比較(一九二二年)
牟田口廉也先づ敵の傷病者を慰問す(昭和十七年)
山岡隊の敵味方慰霊と平和祈願(昭和二十年)
元の捕虜が恩人の父を獄中に訪う(昭和戦後)
ロサンゼルス郊外「情けは武士の道」の碑(一九三二年)
右衛門佐の妻光姫と若松観世音堂
島津日新斎父子降将を帰還さす
「望月の駒の頭も」と謡う泥田の敵を殺さず
石室幽閉三年の大河内源三郎の足腐る
家康秀忠の「式次第」木村重成の首実験
切支丹戦争の捕虜のうち非宗徒は助く
幕府の代官が島原天草に敵の供養塚
生きとし生ける者ごとに物の哀れは知るものぞ
益満休之助外二名の死刑捕虜を生かす
松平宗秀捕虜の宍戸備後を去らす
酒井吉之丞戦場に敵の子を助け哀傷す
安藤則命彰義隊参加の若者達を救う
捕虜を斬って永く悔を遺した有馬藤太
薄田矢馳敵の立見鑑三郎等を助く
西郷吉之助が指示した荘内降伏の取扱い
太政官命令「捕虜は家臣同様に扱うべし」
義の耳納堂の神功皇后八幡太郎の耳塚
京都の耳塚と怨親平等供養(一五九七年)
京都深草と長崎稲佐の捕虜の墓(一九一〇年)
加奈陀に日本人義勇兵結集(第一次世界大戦)
二百の義勇兵中戦死五五名戦傷一二九名
イギリスの少佐を涙ぐませた義勇兵
母よと叫ぶ敵之義勇兵第二の突きをやめる
敵を愛すという武士道は英兵にわからず
メリット聯隊長義勇兵の心事に落涙
我命はなし命助かる敵に手当せよ(第一次世界大戦)
手当は重傷者から私は後廻しでよい(明治三十七年)
日本海軍イギリス海軍に功を譲る(第一次世界大戦)
武士的なものが日本人から失われんとしている(一九〇六年)
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