図書ゲンバク ヒロシマ ノ キロク000006090

原爆ヒロシマの記録

サブタイトル1~10
回顧五年
編著者名
「原爆ヒロシマの記録」編集部 編者
出版者
瀬戸内海文庫
出版年月
1950年(昭和25年)5月
大きさ(縦×横)cm
26×
ページ
77p
ISBN
NDC(分類)
210.75
請求記号
210.75/G34
保管場所
閉架一般
内容注記
和書 史料調査会旧蔵資料
目次

報道篇
昭和二十年
敵、広島に新型爆弾(八・八)
落下傘つき、空中で炸裂(八・八)
ピカッ! 物陰に(八・一一)
新型爆弾(八・一一)
鈍音熱線大轟音(八・一二)
悪魔の爆弾英民衆も非難(六・一二)
広島の戦訓(八・一二)
壕には爆風除け(八・一三)
正に火薬二万噸に匹敵(八・一五)
危険は閃光の一瞬(八・一四)
聖断を拝し大東亜戦争を終結(八・一五)
詔書(八・一五)
最大の兇器原子爆弾(八・一五)
従来の作戦を一変す(八・一六)
英米で共同研究(八・一六)
原子爆弾投下機操縦者の話(八・一七)
死亡なお続出(八・二三)
原子爆弾現地調査報告(八・二三)
原子爆弾、あの日の戦慄(八・二四)
残された原子爆弾の恐怖(八・二四)
惨、累々たる死骸(八・二四)
半径二キロまで全壊焼(八・二四)
死者なおも続出(八・三一)
頭髪も全部ぬける(八・二九)
「原子爆弾」その後(八・三一)
広島の被害世界一(九・四)
妊婦には影響なし(九・一七)
嘘だ、七十五年説(九・一〇)
原子爆弾防禦法米研究所で発見(一〇・二)
「原子爆弾」奇譚(一〇・一二)
原子爆弾の恐怖と対処策(一一・一七)
地震学者のみた原子爆弾(一一・一一)
根こそぎ倒れた国泰寺の樟(一一・一三)
症状は回復してもこの冬無理は禁物(一一・二五)
空中で組立て広島爆撃(一一・二五)
街の話題(一二・一九)
妊娠は当分駄目(一二・一九)
原子爆弾と広島の復興(一二・三〇)

昭和二十一年
爆発音で誤り伝える二弾投下(一・六)
“不妊症婦人”が妊娠(一・二〇)
圧力波で千哩の突風(一・二二)
米軍総司令部広島の被害を発表(二・四)
生きている原子爆弾(二・六)
原子症状いまはなし(二・六)
被爆後半歳・広島の復興(二・六)
新型爆弾症(二・一一)
「爆弾症」その後の状況はこうだ(五・一三)
「広島」は新世界の出発点(五・一三)
廃材の机、石の腰掛(五・一五)
爆弾症に医学の挑戦(五・二二)
原子症は再発?(五・二四)
広島は平和のシンボル(六・一六)
細胞や血液に新影響(六・一七)
団子に原子沙漠の草(七・六)
遺す原子弾戸籍(七・二五)
世に告ぐ新生「広島」(七・三)
爆心に平和の霊地(八・六)
「沙漠」から「住める街」に(八・六)
雑草の「原爆植物園」(八・六)
原子爆弾研究にわが学界総力を結集(八・八)
霊よ安かれ・茂る夏草に祈り(八・八)
原爆の影響で児童の体力低下(八・三一)
天晴れ広島戦災五童心(一一・一七)
火傷手術いまチヤンス(一二・二一)
後世に伝う「原子戸籍」建物の部(一二・二六)

昭和二十二年
広島・長崎の再建(一・三)
広島・長崎の居住害なし(一・一九)
米記者団一行の広島訪問感想記(二・二〇)
原子爆弾で奇形児生る(三・二八)
自然の恵みを生かせ(四・三〇)
広島の焼跡に颯爽?登場(四・三〇)
爆心に祈る孤児にうるむ愛の瞳(五・一)
米国版「広島の声」(五・一五)
ベル博士と本川校結ぶ愛情(五・一六)
UP特派員の広島訪問記(五・一九)
人間は一撃で死んだ(六・五)
原爆症診断に都築博士来広(六・二四)
爆心地に「仲よしくらぶ」(六・三〇)
広島こそ平和のメツカ(七・二九)
夏草原子爆弾模様(六・二八)
高らか平和の鐘(七・二九)
原子医学は世界一(八・一)
ピカツと来た途端に産ぶ声(八・一)
市街の八割三分復興(八・一)
あれから三年アトム広島変遷記(八・二)
平和のメツセージ(八・二)
母の愛か奇蹟の生(八・三)
原爆患者を慰問(八・三)
世界の書「ヒロシマ」後日物語り(八・三)
平和な悲願の旅路(八・四)
広島へマ元帥の特使(八・四)
世界語「ピカドン」(八・五)
空から見た広島(八・五)
原爆のヒロシマの体験録音で全米に放送(八・五)
きよう原爆二周年(八・六)
高鳴る平和の鐘(八・七)
安らけし平和の日(八・七)
マ元帥メツセージ(八・七)
文明の魁に広島市長宣言(八・七)
正一君をたずねて幾千里(八・七)
我が家の焼跡巡礼(八・七)
落すなかれ三発目(八・九)
広島、長崎の原爆影響調査(九・三)
「原爆の乙女」が再生の航路(九・四)
広島、長崎の幼児発音調査(九・六)
原子都と観光瀬戸内海(九・八)
似島に原爆千人塚(九・二〇)
轟け平和の鐘(九・二四)
つゆ草の遺伝変種発見(九・二六)
米に新しき友(九・二八)
広島こそ世界のメツカ(九・二八)
吹き飛んだ二〇キロ(一〇・四)
アチラの友達から広島の学童へ贈物(一〇・五)
広島児童文化会館地鎮祭(一〇・五)
原爆から二年、脚光を浴びる似島(一〇・一四)
実験台に新しき生(一一・二九)
沙漠に学童の天国(一一・二二)
広島で平和の世界会議(一二・七)
アトム洗礼の神父遍歴の旅から還る(一二・八)
原爆の都にわれらの天皇(一三・八)
世界に伝わる“天皇とヒロシマ”(一二・八)
原爆地に千万ドルの贈物(一二・一五)
ヒロシマに原爆研究所(一二・一七)

昭和二十三年
原爆都一番乗り、瑞西から婦人記者(一・二一)
アトム広島にアメリカの花(一・二四)
アトム広島に孤児の家(二・五)
北米の仏教徒から贈物(二・一一)
原爆の被害研究所(二・一五)
グ司令官来広(三・二)
明年“平和博”(三・三)
児童文化会館の建設進む(三・五)
アトム広島復興の春(三・二五)
ベル博士らの祝福を浴びて(五・四)
前例のない施設(五・四)
爆心に悲願の公園(六・二〇)
営々の“村造り”二年(七・三)
両市に原爆医学研究所新築(七・六)
回り来る平和三周年(八・一)
四度びめぐり来る思い出の日(八・一)
世界平和確立は市民の責任(八・五)
海を渡りくる激励文(八・六)
平和きつと広島から(八・七)
平和宣言(八・七)
「アトム都、広島の追憶式典」(八・七)
さよなら原爆症(八・八)
大人気のスピード復興(八・二四)
平和記念公園の応募要項きまる(八・二四)
広島市民へのメツセージ(一〇・一四)
ヒロシマ新地図、一カ月に外客五百名(一二・七)
素晴しきかな平和都市(一二・七)
来広の外人に原子焼の贈物(一二・七)

昭和二十四年
海越えて米婦人“愛の小包”(一・三一)
原爆広島の復興、外人に忠言を聞く(二・六)
八月六日を“世界平和デー”に(一・二八)
原爆の街ヒロシマ(二・九)
原爆患者の被災実演を撮影(三・一六)
「原爆の日」を祝日に“ヒロシマ”の著者にも(三・二〇)
原爆都の皇太子さま(四・七)
ノーモア・ヒロシマズ運動(四・一九)
原爆罹災者の署名運動(五・一五)
全人類を愛で結べ(六・四)
きのう晴れの着工(六・四)
原爆孤児と仲よく半日(六・九)
原爆の広島救えと9万ドル(六・一八)
鳴れ世界の果まで(六・二三)
悲願広島の家(七・二)
原爆傷害研究所近く着工(七・二)
賛成が圧倒(七・九)
平和を祈る一票(七・九)
あす公式に開所式(七・一三)
八月六日を広島の日に(七・一九)
6・7・8の三日間広島で平和祭(八・四)
高らかに平和の鐘(八・七)
世界各地へ記念ポスター(八・四)
広島・長崎にノツポ人出現か(八・二二)
原爆死者二十万突破(八・三〇)
平和生む最後の一撃(九・二六)
米眼科医二名が来広(九・八)
吉川氏夫妻を激励慰問金を贈る(一〇・一)
原爆研究所陣容を強化(一〇・九)
四年後のヒロシマ(一〇・一)
平和への道標(一〇・一五)
原爆の眼への影響(一一・三)
広島平和センター(一一・一九)
広島で原爆都市青年交歓会(一一・二一)
初の国際学生会議(一一・二二)
原爆体験記を紹介(一一・二三)
広島、長崎に新しい原子病(一一・二二)
広島に集る同情の眼(一二・二八)
爆弾篇
英で着手、米で生産(八・一五)
動力の世界に革新(八・一五)
実験閃光と重圧(八・一六)
五百トン爆弾と同じ作用(八・一六)
浅田博士に聴く(1)(八・二一)
浅田博士に聴く(2)(八・二二)
浅田博士に聴く(3)(八・二三)
浅田博士に聴く(4)(八・二四)
浅田博士に聴く(5)(八・二六)
浅田博士に聴く(6)(八・二七)
原子爆弾の神秘を声明(三・三〇)

体験篇
原子弾を浴びて(八・三一)(大田洋子)
つきぬ情の一筋(二・一五)
名作「原爆の回顧」(八・八)
原爆孤児が綴る新版「父帰る」(八・二一)
私らは大きくなつた(八・八)